映画化で消えた、観客に話しかける案内人
トマス・モアの信念と政治権力の対立を描く『わが命つきるとも』。原作の舞台には、映画では姿を消した仕掛けがありました。一人の俳優が、身分の低い複数の役と案内人を兼ねる「コモン・マン」です。[1]
・召使いも、船頭も、看守も同じ俳優
ロバート・ボルトの戯曲で、コモン・マンは観客へ直接話しかけ、劇の進行に関わります。冒頭では舞台に置いたかごから召使いの上着と帽子を取り出し、その場でマシューへ変わります。[2] さらに、船頭、塔の看守、処刑人といった別々の人物を演じます。映画研究誌Literature/Film Quarterlyのジョン・M・プライスは、これを舞台と映画の目立った違いとして取り上げています。[1]
王や枢機卿、大法官は、国を動かす側の人物です。それに対し、コモン・マンが担うのは、彼らのそばで働きながら、できれば厄介事には関わりたくない普通の人たち。同じ顔の俳優を何度も見ることによって、その共通点が観客に伝わる仕組みになっています。[1]
・消えたのは、人物たちをつなぐ枠
映画化では、この一人の案内役が複数の人物へ変わる演劇的な枠がなくなりました。船頭や看守といった仕事が物語に不要になったという意味ではありません。別々の登場人物を、一人の「普通の人」として重ねて見せる方法が、映画では採られていないのです。[1]
案内人が客席へ顔を向ければ、観客は歴史劇を見ている自分の位置を意識します。一方、映画は、その場にいる人物同士の会話や行動として話を進めます。同じ脚本家の仕事でも、客席とのつながり方が変わっています。
・信念を守る人と、面倒を避けたい人
プライスは、モアの揺るがない態度と、コモン・マンが示す実際的な判断の対照にも注目しています。[1] 大きな決断をした人物のそばには、その決断のために自分まで危険を冒したくない人もいる。舞台の配役は、その距離を目に見える形にしていました。
映画だけを知っていると、原作にも同じ人物配置があると思いがちです。けれど本作は、台詞を映画へ移すだけでなく、誰が物語の案内をするのかという仕組みも変えていたのです。