うる星やつら オンリー・ユーを配信で見られるサービスを、確認できた範囲で掲載しています。未確認のサービスは公式サイトで探せます。
1983年公開。テレビシリーズの人気が沸騰するなか、押井守が長編映画の監督を初めて任され、金春智子の脚本をもとに友引町の面々を総動員した劇場版第1作である。押井は後年、ファンが期待するにぎやかな娯楽作にはできたものの、自分の映画を作ったという手応えは持てなかったと振り返り、伊丹十三からは甘い菓子のような映画だと評されたという。その不満は失敗談として片づけられず、次作を自ら脚本から組み直す直接の動機になった。製作側が求めた安全な人気作はきちんと完成したが、同時に監督の反抗心まで上映時間いっぱいに育ててしまったのである。
押井守の劇場長編デビューは、じっくり準備された企画ではなかった。前任監督が降板し、公開まで約5か月という段階で引き継ぎ、放送中のテレビシリーズも動かしながら完成へ運んだのである。宇宙を横断する大騒動の裏で、制作現場にも締切との競争が走っていた。場面数の多い祝祭的な構成を見直すと、それを短期間でまとめた職業監督としての判断力が浮かぶ。
引き継いだ時点で出来上がっていたのは、エルのイラスト、完成した脚本、そして数枚の絵コンテだったという。そこから艦隊、婚礼、追跡、オールスターの群像まで、映画一本分の画面を公開日に合わせて構築した。物語の骨組みは受け継ぎつつ、見せ場の順序と映像のリズムは現場で立ち上げる必要があったのである。大人数が一斉に動く場面ほど、短い準備期間との落差が際立つ。
本作で押井守が優先したのは、監督自身の思想を前面へ出すことではなく、人気シリーズを公開日に届けることだった。テレビ版の制作も止めず、既存キャラクターを集めた職業監督の映画としてまとめたのである。翌年の『ビューティフル・ドリーマー』と並べると、同じ監督が「作品を守る役目」と「自分の映画を作る役目」を使い分けたことが見える。にぎやかさそのものが、制約へ応えた演出なのである。
押井守は後年、この映画と翌年の『ビューティフル・ドリーマー』を二作品で一組だと捉え直している。最初にシリーズの期待へ応える祝祭映画を作り、その次に自分の主題を押し出したからこそ、二つの方向がはっきり分かれた。公開順が逆なら監督人生も違ったという回想まで含めると、本作は捨てられた助走ではなく、作家性の輪郭を反対側から示す一作に見えてくる。 再見時には、その痕跡を画面と音の細部でも確かめられる。
劇場版だからテレビ版と別の高尚な物語へ変えるのではなく、押井守は人気人物と騒動を画面いっぱいに広げた。本人が後に評した「大きなテレビ」という言葉は自己批判でもあるが、同時に制作方針をよく表す。友引町の仲間、宇宙の幼なじみ、両軍の艦隊までを一度に動かし、週一回の楽しさを長編の祝祭へ変えた。誰がどの場面へ顔を出すかを追うと、ファン映画としての設計密度が分かる。
『オンリー・ユー』には、1983年の劇場公開版とは別に、後年約104分のノーカット版として紹介された長尺版がある。短い制作期間で公開へ合わせた作品だけに、どの版を見ているかで場面の有無やテンポが変わりうる。背景ネタや台詞を確かめるときも、版を記録しなければ「見つからない」が誤判定になる。作品史そのものに、公開締切と後年の復元が刻まれているのである。
エルの周囲には、名前だけでなく惑星、美術、脇役まで薔薇が繰り返される。ローゼンバッハという姓、蕾のような母星、首都バラン、ババラとロゼ、幼少期の「ばら組」の名札が同じ意匠で結ばれているのである。美しいものを集めて保存しようとするエルの性格を、台詞より先に世界全体が語っている。回想や背景の文字まで追うと、一人の人物の趣味が惑星規模のデザインへ膨らんでいることが見える。
エルの母星は日本語で「エル星」と呼ばれ、声に出すと作品名の「うる星」とよく似ている。意図を明言した制作資料は未発見だが、敵対する花嫁の世界を題名の一音違いに置く仕掛けとして機能する。ラムのいる「うる星」と、エルが支配する「エル星」が、あたるを挟んで音まで競い合うのである。字幕では消えやすい、日本語の耳で楽しむ小さな対立構造である。
ラムが差し出す婚約指輪は、甘い小道具のままでは終わらない。「エンゲージリング」という外来語の響きを、指輪を外した者への超電気リンチへ滑らせるからである。恋人の証しと電撃の脅しが一息の台詞で結ばれ、ラムの愛情表現そのものになる。吹替や字幕では拾いにくいが、日本語音声を意識して聞くと、ロマンスと暴力が同じ語尾から立ち上がる場面である。
ラムが街で足を止める店の名は「Coffee Pierot」。本作の製作協力がスタジオぴえろであることを知ると、背景看板が制作会社の署名に見えてくる。物語を中断して説明するのではなく、友引町に実在する一軒の喫茶店としてスタッフ名を溶かしたのである。再見時には人物だけでなく、通り過ぎる文字にも制作現場からの挨拶が隠れていないか探したくなる。
ロゼが狸像へ隠れる場面は、狸の変化の民俗と彼女の変装を重ねたものだという説がある。画面の像は手がかりだが、意図を語る制作証言は見つかっていない。小さな一場面でも、読み方は増殖する。
本作をサッカリン工場の爆発と呼んだ人がいた、という有名な言い回しがある。ただし最初の媒体や発言者は確定していない。強烈な評ほど、出典まで追うと霧が濃い。
婚礼からの逃走は、映画『卒業』への意図的なオマージュだという見方がある。画面を比べたくなる構図ではあるが、監督や脚本家の明言は確認できていない。似ていること自体が、映画好きには十分な手がかりだ。