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1984年公開。前作への不満を抱えた押井守が「もう一度やらせてほしい」と臨み、今度は監督だけでなく脚本も担当して、学園祭前日の騒動を夢と現実が循環する映画へ作り替えた。テレビアニメの制作現場にはビスタサイズ用の作画用紙がまだ整っておらず、画面は通常のスタンダードサイズで描いて撮影し、劇場では上下を切ってビスタサイズに見せる方法が採られたという。原作の世界と登場人物を借りながら、映画の構造は押井自身の関心へ大きく傾き、その強烈な作家性が後年の評価を決定づけた。人気シリーズの続編を任せたはずが、納品されたのは監督の事実上の所信表明であり、企画会議としては悪夢でも映画としては夢が残った。
完成作の迷路のような構成は、初めから緻密に温められていたわけではない。制作は脚本段階で約6か月も難航し、既存案を捨てた後、押井守が約1か月でプロットと絵コンテを組み直した。何度やっても終わらない学園祭前日という物語は、先へ進めない制作現場から一気に抜け出すための形でもあったのである。反復する場面を見ると、現場の停滞が映画の構造へ変換されたことが分かる。
友引高校の学園祭準備がいつまでも終わらないのは、夢の設定だけから考えられたのではない。押井守は、若いスタッフが徹夜を重ね、昨日と今日の境目を失っていくアニメ制作現場の感覚を物語へ移した。散らかった教室、夜食、妙な高揚、同じ作業の繰り返しは、画面の外で映画を作っている人々の日常でもあった。祭り前の幸福が不気味に長引くほど、制作する側の疲労と愛着が重なって見える。
友引町の異常に最初から気づき、誰にも相手にされず走り回る温泉マークには、押井守自身が重ねられている。祭りのように暴走する若いスタッフをまとめ、締切へ向かわせる監督の孤立が、教師の焦りへ置き換えられたのである。大声で秩序を訴える姿が笑えるほど、その背後には制作責任者の切実さがある。彼の家庭訪問を追うと、夢の謎解きだけでなく、現場を管理する者の悪夢にも見えてくる。
押井守は、ラムの魅力を自分が完全に理解したふりをしなかった。むしろ理解できない距離を残し、そこへ監督自身の夢と不安を持ち込んだ。ラムが守りたい穏やかな日常と、その世界を外から疑う者の視線が同時に存在するのは、そのためである。原作人物を作家の代弁者へ変え切らず、異物のまま中心へ置いたから、幸福な夢が優しくも不気味に見える。
友引町が夢へ変わる瞬間に、建物が派手に溶ける必要はなかった。階段や路地のつながりへM.C.エッシャーを思わせる不可能な循環を忍ばせ、ほとんど同じ風景のまま帰宅できない空間を作ったのである。見慣れた校舎と町並みが少しだけ接続を誤るから、人物より先に観客の方向感覚が崩れる。背景の入口と出口を追い直すと、夢の正体が発覚する前から、画面そのものが論理を裏切っていたと分かる。
本作の予算は監督回想で約8000万円。作画はテレビと同じ標準フレームを使い、劇場では上下を隠して横長に見せる「貧者のビスタ」方式だった。最初から広い画面だけを描くのではなく、テレビ制作の設備と素材を利用しつつ、上映時の見え方を計算したのである。上下に何が描かれていたか、どの位置へ人物を置いたかを意識すると、限られた予算で劇場らしさを作るフレーミングの工夫が見える。
本作の夢は、何でも起きる無秩序な空間ではない。竜宮城で幸福な時間を過ごし、外の年月を失う『浦島太郎』を、終わらない学園祭前日へ移し替えている。巨大な亀に友引町が乗る図像は昔話を可視化し、帰りたい者と残りたい者の対立を生む。昔話を知って見直すと、箱を開ける恐怖だけでなく、幸福な場所から出ること自体が罰になりうる構造が浮かぶ。
夢を管理する老人の名「夢邪鬼」は、耳で聞けば子どものような「無邪気」と同じ音になる。しかし文字では夢を扱う邪な鬼へ変わり、愛嬌ある姿と危険な力を同居させる。ラムの願いを善意でかなえたように見えながら、町全体を閉じた世界へ変えてしまう人物にぴったりの二重名である。台詞だけで聞き流さず表記を見ると、映画の甘さと不気味さが一語に圧縮されている。
本作の映像商品は、画質だけでなく音の履歴も残している。劇場公開時のオリジナル音声、修復版、5.1chリミックスを収録し、押井守、千葉繁、西村純二らの解説も用意された。同じ足音や街の気配でも、版によって距離と広がりが変わる可能性がある。夢の反復を扱う映画を、異なる時代の音で何度も体験できる構成であり、比較鑑賞そのものが作品テーマと響き合う。
友引高校の時計塔は、単に古びて壊れているのではない。前作『オンリー・ユー』でラムの電撃を受けた損傷が、次の映画にも残っていると読める。現実がほどけていく物語の中で、前作の出来事だけは校舎の傷として持ち越されるのである。二作品を続けて見ると、時計塔はシリーズの連続性を示す小道具であると同時に、何度騒動が起きても日常へ戻る友引町の記憶にも見えてくる。
学園祭準備の混雑には、物語の人物だけでなく、作品を作っている側も紛れ込む。群衆の中に「STAFF」と書かれた台車が現れ、制作スタッフを思わせる人物たちが乗っているのである。徹夜のアニメ現場を学園祭へ重ねたという証言を踏まえると、単なる内輪ネタ以上に、作り手が自分たちの祭りを画面へ押し込んだ署名になる。短いカットだが、虚構と制作現場の境界が一度だけ見える。
学園祭準備に現れる『ゴジラ』風の場面は、映像を横に置いて写した再現ではなかったという。家庭用ビデオで本編を簡単に参照できない時代に、押井守が映画館で見た記憶を頼りに組み立てたとされる。細部が完全に同じかではなく、何が観客の記憶へ残ったかをアニメで作り直した場面なのである。元作品と比較すると、資料のない模写ではなく、記憶による映画体験の再演として楽しめる。
夢邪鬼があたるへ次々と夢を見せ、最後にハーレムの夢へ行き着く仕掛けには、テレビシリーズの関連エピソードがある。映画はその短いギャグを、友引町全体が眠る長編へ拡張した。ひとりの欲望だった夢が、ラムの願いと町の時間を閉じ込める世界へ変わったのである。元の回と見比べると、同じ道具立てが笑いから不安へ、個人から共同体へ広げられた脚色の大きさが分かる。
友引町が夢へ崩れても、面堂家の兵器は曖昧な「戦車」や「飛行機」ではない。レオパルト1、ハリアー、フォルクスワーゲン181を思わせる実在機の輪郭が保たれている。現実の重い機械を正確に置くからこそ、それが校庭や水没した町を走る異常さが強くなる。車体、主翼、垂直離着陸の動きを見直すと、軍事趣味が背景装飾ではなく、夢を現実へ固定する重りとして働いている。
原作者が激怒して、押井守をシリーズから追放したという説が広く語られる。けれど感情と人事をそこまで断定できる一次資料は見つかっていない。作品の受け止め方と制作の決定を、一つの伝説にまとめるのは危うい。
亀の上に世界がある構図を、ヒンドゥー宇宙観の直接引用だと読む説がある。図像の近さはあるが、制作意図を裏づける証言は見つかっていない。浦島太郎とのつながりのほうが、資料ではずっと強い。
海外ビデオでは本作だけ権利事情が特別だった、という話がある。独立した流通の痕跡は見えるが、古い契約全体を確認できる資料はそろっていない。商品史は、作品本編と別の迷路だ。
保健室の背景に別作品の悪役が隠れている、という指摘もある。似たシルエットは見つかるが、スタッフの明言や正式な画面台帳は確認できていない。背景探しは楽しいが、断定は別腹だ。