主な参考資料
- The Criterion Collection
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本作は上田秋成の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」に、ギ・ド・モーパッサンの短編「勲章」を組み合わせ、溝口健二が脚本家の依田義賢へ送った手紙では、戦争と暴力が民衆へ及ぼす圧迫を中心テーマとして明示した。準備資料には日本の髪型史、経済史、絵巻物、能面、日本食物史など少なくとも9分野が並び、若狭の化粧は金剛流の能面を基に3段階で変え、梵字の入れ墨には雲母を混ぜて浮世絵の輝きを持たせた。湖上場面はロケの遠景1カットを除いて撮影所の木枠プールで撮り、池の水漏れを助監督たちが布で塞ぎながらワイヤーで舟を動かしたため、冬の水へ入った第四助監督の友枝康秋は凍傷になった。宮川一夫は撮影の約70%でクレーンを使ったと回顧したが、宮島八蔵によれば溝口自身がカメラ位置を決めて横のファインダーから確認し、宮川へ任せたのは高さなど撮影操作の細部だった。2016年の4K復元はマスター・ポジとデュープ・ネガを素材にCinericが作業し、宮川の助手を務めた宮島恭一とマーティン・スコセッシが監修に加わり、墨絵のような白黒画面の再現を目指した。1953年ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した本作は、撮影所の池が漏れても、画面の月までは沈ませなかったのである。
本作の脚本は、上田秋成の「浅茅が宿」と「蛇性の婬」に、ギ・ド・モーパッサンの短編「勲章」を組み合わせた。川口松太郎と依田義賢は、離れていた3編の人物と欲望を戦乱下の一つの物語へ編み直した。
溝口健二は脚本家の依田義賢へ送った手紙で、本作が「戦争と暴力が民衆へ及ぼす圧迫」を扱うべきだと伝えた。怪談の雰囲気から意味を後づけしたのではなく、脚本開発の段階から戦乱と欲望を結びつける方針が明示されていた。
第一助監督の宮島八蔵が残した資料帳には、日本の髪型史、経済史、絵巻物、浮世絵年代記、能面、日本食物史、歌謡集など少なくとも9分野が並んでいた。溝口健二と制作班は、衣装だけでなく市場の人々、食べ物、歌、化粧まで同じ時代の手触りへそろえるために資料を集めた。
本作の源十郎の家と陶器窯は、ロケ地にある外観と撮影所内のセットを一つの生活空間としてつないだ。制作班は画面の向きや素材感を合わせ、二つの場所が切り替わったことを観客へ意識させないようにした。
本作の湖上場面で実際の湖を使ったのは、舟が遠くへ進む1カットだけだった。残りは撮影所に造った池で撮られ、完成画面を見た小津安二郎は、溝口健二へロケ地を尋ねたという。
湖上セットは木枠へ布を張って水をためた池だったが、撮影中も水が漏れ続けた。助監督たちは穴へ布を詰め、同時に水中のワイヤーで舟を動かしたため、第四助監督・友枝康秋は凍傷になった。
撮影監督の宮川一夫は、1992年のインタビューで、本作の約70%をクレーンに載せたカメラで撮ったと回顧した。カメラを人物と同じ高さで横移動させるだけでなく、地面や水面の上を滑るように位置を変えるための道具としてクレーンを使った。
第一助監督の宮島八蔵によれば、溝口健二は本作のカメラ位置を自分で指定し、撮影中も横のファインダーから画面を確認した。宮川一夫へ任せたのはカメラの高さや動かし方の微調整であり、画面設計をすべて撮影監督へ渡したわけではない。
霧の湖で聞こえる歌は『梁塵秘抄』から選ばれた。制作班は『大日本歌謡集成』に収められた『梁塵秘抄』を参照し、古い歌の言葉と調子を湖上場面へ持ち込んだ。
本作の市場場面で、助監督たちは群衆を「通行人」と一括りにしなかった。職業、衣装、小道具、かぶり物、立ち位置を設計図へ書き込み、美術、衣装、小道具などの各部署へ配って、画面の奥まで役割を割り当てた。
若狭の化粧は能面を基に3段階で変化した。制作班は金剛流の能面を参照し、顔を3段階で変化させた。最初の段階では若女面「孫次郎」が基になった。
本作で浴場の水面から野原へ画面が移る場面を作る際、溝口健二は尾形光琳「紅白梅図屏風」の感覚を目標として示した。単に場所をつなぐ編集ではなく、二つの空間を一枚の装飾画のように連続させることが制作班の課題になった。
太鼓の異様な残響はグランドピアノで作った。制作班はグランドピアノの弦を露出させ、太鼓奏者を閉じた鍵盤へ反るように倒れ込ませた。別の助監督が奏者の脚を支え、弦の共鳴を録った。
源十郎の背に書かれる梵字は、日本画家で本作の風俗考証も担当した甲斐庄楠音が手がけた。制作班は顔料へ雲母を混ぜ、浮世絵の画面が光を返すようなきらめきを白黒撮影の中で出そうとした。
森雅之が縁側から地面へ落ちる場面は、2回のテストに続く3回目で本番を撮った。森は着地の際に頭を打ってこぶを作ったが、そのテイクは成立し、森は溝口健二の演出を責めるのではなく監督を評価したと宮島八蔵は回顧している。
本作の4K復元は、現存するマスター・ポジとデュープ・ネガを素材にCinericが作業した。宮川一夫の助手として約30年働いた宮島恭一と、1958年にテレビで本作を初めて見たマーティン・スコセッシが監修へ加わり、墨絵のような白黒画面の再現を目指した。
「本作のカメラ位置は撮影監督の宮川一夫にすべて任されていた」という説明は、第一助監督・宮島八蔵の回顧と合わない。溝口健二が位置を指定して横のファインダーから確認し、宮川へ任せたのはカメラの高さや動かし方の細部だった。宮川の創造性を否定する話ではなく、監督と撮影監督の分担を「全面委任」と単純化しないための訂正である。