主な参考資料
- AFI
- Los Angeles Times
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1984年公開。本作は『アルカトラズからの脱出』(1979)の脚本家リチャード・タッグルが、サンフランシスコ湾岸で起きた連続強姦殺人事件の記事を起点に、刑事と犯人の欲望を鏡写しにする脚本をクリント・イーストウッド向けに書き、監督就任を売却条件にして実現した作品である。物語の舞台は当初サンフランシスコだったが、『ダーティハリー』(1971)の印象を避けたいイーストウッドの要望でニューオーリンズへ変更され、1983年10月17日から12月3日まで全編ロケで撮影された。初監督のタッグルを撮影監督ブルース・サーティースや編集ジョエル・コックスらイーストウッド組が支え、タッグルは2024年の取材で、イーストウッドが現場の責任者だったものの対立はなく、覚えている脚本変更は一行だけだったと振り返っている。それでもイーストウッドが途中から演出を引き取ったという説は長く流れており、決定的な一次資料が確認できない以上、「裏監督」と断定するのは早い。公開初週末は約916万ドル、その後5週連続で北米首位となり、北米興収は約4,810万ドルに達した。初監督を守るという契約は通っても、誰がどこまで監督したかは今なお霧の中であり、ニューオーリンズの夜より暗いのはクレジットの裏側である。
リチャード・タッグルは、クリント・イーストウッドが主演することを想定して本作の脚本を依頼なしで書き上げた。完成稿を売る条件として、自分自身が監督することを要求し、イーストウッドも受け入れた。『アルカトラズからの脱出』(1979)の脚本家だったタッグルは、こうして本作で長編監督デビューを果たした。
タッグルの出発点は、サンフランシスコ湾岸地域で続いた強姦殺人事件の記事だった。しかし、刑事が犯人を追うだけの筋では平凡だと感じ、ロサンゼルスの風紀犯罪担当警官二人に取材した。性に関わる犯罪を見続けることが私生活へどう影響するかを尋ねた答えから、刑事と犯人が同じ暗い欲望を別の形で抱える物語へ変わった。
タッグルが完成稿を最初に持ち込んだのは、『ダーティハリー』(1971)と『アルカトラズからの脱出』(1979)の監督ドン・シーゲルだった。シーゲルは、自分で扱うのではなくイーストウッドへ直接見せるよう勧めた。前作で築いた三人の関係が、本作の企画を動かす入口になった。
初稿の舞台はサンフランシスコだったが、イーストウッドは同地が『ダーティハリー』(1971)以降のシリーズと強く結びついているとして変更を求めた。タッグルは以前から知っていたニューオーリンズを提案し、物語全体が移された。タッグルは後年、本作をダーティハリー作品へ転用する案そのものはなかったとも明言している。
主要撮影は1983年10月17日から12月3日までの48日間で、スタジオ撮影を挟まずニューオーリンズのロケだけで進められた。多くの場面を撮ったフレンチ・クオーターでは、翌年の1984年ルイジアナ国際博覧会に向けた改修工事も続いていた。映画には、観光都市が大きく変わる直前の街並みが記録されている。
ベリル役の候補だったスーザン・サランドンは、当時仕事を強く必要としていたにもかかわらず出演を断った。本人によれば、脚本の中で性と暴力が強く結びつき、女性への扱いにも影響する点をイーストウッドへ直接問いかけた。考えを変えられる返答ではなかったため、役を受けなかったという。
タッグルはベリル役にジェーン・フォンダを提案した。フォンダとイーストウッドの政治的なイメージが対照になる点も面白いと考えたが、イーストウッドは彼女を好まないと答えて案を退けた。タッグル自身も政治が理由だった可能性を推測しただけで、拒否の詳しい理由までは知らないと断っている。
ウェス・ブロックの娘アマンダを演じたアリソン・イーストウッドは、主演クリント・イーストウッドの実娘である。親子が画面上でも父娘を演じる配役だった。アリソンは当時12歳で、本作は子役時代の出演作の一つとなった。
タッグルは、イーストウッドが脚本から変えた箇所として覚えているのは一つだけだと語っている。風紀犯罪担当の警官が、仕事を通じて妻へ以前より優しく接するようになったと話す台詞から、「ベッドで」という意味の語句を外した。刺激的な題材の映画だが、少なくともタッグルの記憶では大規模な台詞改稿はなかった。
主人公が男性との性的経験をほのめかす場面は、1984年のイーストウッド像には大きな冒険だった。タッグルによれば、イーストウッドは本来の台詞を演じたうえで、編集時に使える別の台詞も撮影した。完成版では逃げ道として用意した別テイクではなく、最初の含みを残した台詞が選ばれた。
レニー・ニーハウスは1960年代から映画音楽の編曲やオーケストレーションを担っていたが、本人によれば全曲を自分で作曲した最初の映画は本作だった。イーストウッドから直接電話を受け、「この小さな映画に合う」と誘われた。ここから二人の長い映画音楽の協働が始まった。
イーストウッドはニーハウスをニューオーリンズへ連れ出し、バーボン・ストリートを歩くと左右の店からディキシーランド、カントリー、ジャズなどが断片的に聞こえる効果を示した。ニーハウスは撮影後の編集で長さを調整できるよう、八つの異なる曲を完成形で作曲・録音した。人物が通りを進む動きに合わせ、一曲ずつ音量を下げながら次の曲を重ねている。
イーストウッドはニューオーリンズ郊外のクラブで演奏していたサックス奏者ジェームズ・リヴァースに注目し、ニーハウスへ彼のための曲を頼んだ。ニーハウスはホテルの便箋に一晩で数曲を書き、翌日録音した曲はすべて映画に使われた。その中の一曲は、シドニー・ベシェを現代化する発想で書かれた主題曲になった。
世界初上映は1984年8月16日、モントリオール世界映画祭の開幕夜に行われた。その翌日には、米国のおよそ1,535館で一斉に公開された。映画祭で披露してから段階的に館数を増やすのではなく、ほぼ間を置かず大規模公開へ移る売り出し方だった。
初週末の北米興収は915万6,545ドルで、公開10日後には約2,091万ドルへ達した。ワーナー・ブラザースは当時、イーストウッド主演作として新しい10日間記録だと発表している。最終北米興収は集計元によって4,810万ドルと4,814万3,579ドルに分かれるため、約4,810万ドルとみるのが安全である。
本作のプロデューサー、フリッツ・メインズは製作だけでなく、ヴァルデス役で画面にも登場する。メインズはイーストウッド作品を長く支えた共同製作者で、本作もその一つだった。制作陣の顔を知っていると見つけられる、正式クレジット付きのカメオである。
「新人監督タッグルの仕事が遅く、イーストウッドが映画の大半を監督した」という説は広く流布している。しかし確認できるのは、後年の記事をAFIが紹介していることまでで、担当場面や日数を示す制作記録は見つからない。タッグル本人は、イーストウッドが現場の主導権を持っていた一方、二人に意見の対立はなかったと振り返っている。分担範囲が判明するまでは、事実ではなく未確認説である。
ジュヌヴィエーヴ・ビュジョルドが「二人の間にラブシーンは不要」と反対したという逸話がある。IMDbは1994年のドキュメンタリーでの本人発言としているが、今回の検索では該当箇所の映像や書き起こしを確認できなかった。ビュジョルドが別の取材で本作のイーストウッドを評価していることは確認できるものの、場面削除までは裏づけないため未確認である。
【ネタバレあり】本作の犯人が元警官であることと、2018年に逮捕されたゴールデン・ステート・キラーが元警官だったことを結びつけ、「その事件が直接のモデル」と説明する説がある。タッグル本人が確認しているのは、サンフランシスコ湾岸地域の強姦殺人報道から着想したことまでで、特定事件名や犯人名は挙げていない。現時点では、後から判明した共通点を企画時のモデルへ遡って結びつけた未確認説として扱う必要がある。
フレンチ・クオーターの狭い道へ大型の撮影トラックを入れるのに苦労したという制作逸話がある。全編がニューオーリンズのロケだったことはAFIの記録で確認できるが、車両運用の具体的な問題はIMDb以外の制作資料やスタッフ証言へたどり着けなかった。場所の性質からありそうに見えるだけでは裏付けにならないため、現段階では未確認である。