主な参考資料
- AFI
- BFI
- The Guardian
1955年公開。アルフレッド・ヒッチコックは、死体を囲む田園ブラックコメディという、パラマウントが売り方に困る題材をあえて選び、シャーリー・マクレーンの映画デビュー作として撮った。紅葉を狙った1954年秋のヴァーモント・ロケは雨に崩され、狭い体育館へ避難して撮影したうえ、屋根を打つ雨音のため多くの台詞を録り直すことになった。結局ロケを切り上げ、葉を持ち帰ってハリウッドのセットで秋景色を再現したが、初公開時の興行は振るわなかった。自然の気まぐれを楽しむ映画の現場では、自然が最も容赦のない演出家だったのである。
パラマウントは原作小説が刊行された直後の1950年に映画化を検討したが、死体を囲む乾いた笑いをスクリーンへ移すのは難しいとして見送った。ヒッチコックは後に自分の名を伏せて権利を取得し、原作者ジャック・トレヴァー・ストーリーと代理人は購入者を知って、1万1000ドルという契約額を悔やんだという。監督の名前だけで価格が上がるのを避けながら、スタジオが退けた企画を自作へ変えたのである。
原作の舞台は英国だったが、映画ではヴァーモントの小村へ変更された。ヒッチコックが狙ったのは、殺人の恐怖に似合う暗い土地ではなく、ニューイングランドの鮮やかな紅葉である。住人たちが死体を埋めては掘り返す出来事を、観光絵葉書のような秋景色の中へ置くことで、陰惨さより乾いた可笑しさを前へ出した。
『泥棒成金』の撮影が終わって数か月後、ヒッチコックはニューイングランドの短い紅葉期を逃さないよう次作へ急いだ。ところがヴァーモントでは雨が続き、嵐が木々の葉を落としてしまう。撮影隊は現地で大量の葉を集めてハリウッドへ運び、スタジオに作った木へ一枚ずつ貼り直した。自然の色を求めた映画が、自然を保存して再構成する作業へ変わったのである。
1954年10月7日、アルマ・レヴィルは雨続きのヴァーモントから、屋内場面をアメリカ在郷軍人会の小さな訓練ホールで撮っていると友人へ書いた。広い森を撮りに来た一行が、書簡で「2×4」と冗談を言うほど窮屈な施設へ押し込まれたのである。天候は回復せず、ヒッチコックは全編ロケの計画を断念し、10月中旬にハリウッドへ帰還して残りを完成させた。
雨天のため屋内へ移った撮影では、吊り上げていた重量級のビスタビジョン用カメラが落下し、ヒッチコックの肩近くをかすめたと報じられている。資料によって機材重量の数字には差があるが、当時の大型カメラが監督を直撃しかねなかった点は共通する。死体を何度も運ぶブラックコメディの現場で、最も深刻な危険は頭上の撮影機材だった。
シャーリー・マクレーンはブロードウェイ版『パジャマ・ゲーム』でキャロル・ヘイニーの代役を務めていた。ヘイニーの負傷で実際に舞台へ立った公演を製作者ハル・ウォリス側が見て、マクレーンは個人契約を結ぶ。そこからヒッチコックの制作会社へ貸し出され、本作で映画デビューした。予定外の代役公演がなければ、ジェニファーの配役も別のものになっていた可能性がある。
ヴァーモント撮影中、シャーリー・マクレーンはヒッチコックから毎食を一緒に取るよう求められたという。新人だった彼女は美食家の監督に付き合い続け、その結果、スタジオから体重の増加を注意されたと回想している。監督と主演者が距離を縮めた食卓は、同時に衣装と容姿を厳しく管理する1950年代の撮影所制度にもつながっていた。
本作はアルフレッド・ヒッチコックと作曲家バーナード・ハーマンの最初の映画である。二人はその後、『めまい』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『マーニー』まで協働を重ねた。名コンビの入口にあるのは弦の悲鳴ではなく、秋の田舎を歩く人物と何度も運ばれる死体へ、軽さと不穏さを同時に与える音楽だった。
オープニングでは横長の田園画をカメラが移動し、最後に草地へ横たわる死体へたどり着く。この絵を描いたのは『ニューヨーカー』で知られるソール・スタインバーグで、ヒッチコックもタイトル設計に関わった。現実の遺体を見せる前に同じ構図をイラストとして提示し、死を恐怖の対象より奇妙な物語の小道具として受け入れさせている。
劇中画家の作品を抽象画家が制作した。抽象表現主義の画家ジョン・フェレンが実際に制作し、ヴァーモントの撮影にも同行した。サムが絵を描き、売り方にこだわる人物として成立するよう、本物の作家の作品と身体感覚が画面へ持ち込まれている。
死体を何度も埋めたり掘り返したりする物語だが、当時の製作倫理規定を審査する側が強く問題視したのは、息子アーニーの出生だった。原作と初期脚本では父親がジェニファーと結婚する前に亡くれており、婚外子になる。制作側は婚姻内の子だと明確になる形へ家族関係を書き換え、ようやく脚本の承認を得た。
1954年12月のスタジオ用資料には、冒頭へ「アルフレッド・ヒッチコックによる、ある死体についての喜劇」という説明句を加える案が残っている。つまり観客へ、これは殺人スリラーではなく死体についての喜劇だと題名の前に知らせる設計だった。完成版では説明句が外れ、スタインバーグの絵と死体の構図だけで作品の調子を伝える形になった。
ハリー・ウォープを演じたのは俳優フィリップ・トゥルークスである。しかし画面上のハリーは死体としてしか現れず、自分から台詞を発することも動くこともない。住人たちが持ち上げ、引きずり、埋め、また掘り返すたびに、同じ身体の重さが笑いの間を作る。題名の人物でありながら、受け身の状態を保つことが出演の中心だった。
サムが村を歩きながら歌う「フラッギン・ザ・トレイン・トゥ・タスカルーサ」は、映画の田園風景に合わせた新曲のように聞こえる。ところが旋律は、もともとテレビ番組「ラッキー・ストライク・ヒット・パレード」で使う煙草の商業ジングルとして作られ、別の歌詞が付く予定だった。同時代の宣伝音楽が、売れない画家の気楽な鼻歌へ姿を変えている。
ヒッチコック本人のカメオは、サムの絵を眺める富豪がリムジンを止めた場面に置かれている。監督は車の横を歩いて通り過ぎるだけで、死体を囲む住人たちの輪には入らない。カメラの正面で合図する登場ではなく、絵を売る場面の背景へ自然に紛れるため、人物より車と販売台を見ていると見逃しやすい。
公開後、本作と『裏窓』(1954)『めまい』『知りすぎていた男』『ロープ』の権利はヒッチコックへ戻った。1970年代には新しい配給条件をめぐる交渉のため上映とテレビ流通がほぼ止まり、作品群は観客の前から姿を消す。ユニバーサルが1983年に5本の権利を取得し、1984年2月に新しいプリントで一括再公開した。保存状態ではなく契約が、映画を「見られない作品」にしていたのである。
本作はアメリカで興行的に成功しなかったが、英国とフランスではより好意的に受け止められた。ヒッチコックは1971年の取材で自作中の好みとして挙げ、後には『ヒッチコック劇場』の導入モノローグを書く脚本家へ、本作を見るよう求めたという。死体を前にしても大騒ぎしない人物たちの乾いたユーモアの基準が、テレビで演じる監督自身の語り口にも使われた。
路傍の絵を買いに来る富豪には、リムジンを運転する男が付き添っている。この運転手を演じたアーネスト・カート・バックは、アルバート船長役エドマンド・グウェンの実生活の従者だった。撮影の外でグウェンの身の回りを支えていた人物が、画面の中では別の金持ちへ仕える小さな役を与えられている。
死体をめぐるブラックコメディであることから、『ハリーの災難』ではハリーの遺体描写に本物の死体を使ったという類の話が冗談交じりに語られることがある。撮影小道具や演技上の表現を、現実の死体使用と混同する根拠はない。