空のスーツケースに、本を詰めた理由
『女相続人』で、恋人に見捨てられたキャサリンが、スーツケースを持って階段を上る場面。その重い足取りには、実際の荷物の重さが加わっていました。ウィリアム・ワイラー監督が、空だったケースに本を詰めさせたという逸話が残っています。[1]
・何度上っても、監督は納得しなかった
Criterionが掲載したパメラ・ハッチンソンの解説によると、オリヴィア・デ・ハヴィランドは、この階段を何度も上るよう求められました。繰り返しの果てに彼女がスーツケースを投げたことで、監督は中身が空だと知ります。そこで本を入れて、もう一度撮影。ようやく、監督が求める疲労感が出たとされています。[1]
ここで必要だったのは、ただ荷物を二階へ運ぶ動作ではありません。待っていた相手が来なかった後で、出発のために用意した荷物を自分の部屋へ戻す場面です。同じ階段でも、期待を抱いて下りるときと、失望を抱えて上るときでは、体の動きの意味が変わります。
・「疲れたふり」を、重さで変える
空の小道具なら、どれほど重そうに扱うかは俳優の演技に委ねられます。本が詰まれば、持ち上げる腕にも、歩く速度にも、本物の抵抗が生まれます。ワイラーの方法は、その違いを利用したものでした。ただし、この逸話から、何度もやり直させる演出が常に正しいと決める必要はありません。デ・ハヴィランドが苛立つほど、要求が繰り返された経緯も同じ解説に記されています。[1]
本作で彼女が演じるキャサリンは、最初から強い女性ではありません。父や求婚者の言葉に揺れ、次第に態度や声を変えていきます。ハッチンソンは、役が強くなるにつれ声が低くなる点にも触れています。[1] その変化の途中にある階段では、立派な屋敷や衣装より、手に提げた小さなケースの重さが、人物の状態を伝えていたのです。