主な参考資料
- AFI
- The Criterion Collection
- Turner Classic Movies
- PBS
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1963年公開。ジョン・スタージェスはポール・ブリックヒルの実録を長年映画化しようとしたが、「暗すぎる」「女性が登場しない」と各社に断られ、『荒野の七人』の成功を足場にようやく企画を成立させた。脚本は6人が手を入れ、11稿を重ねても撮影開始時に完成稿がなく、ジェームズ・クラベルがロケ地で執筆を続け、さらにアイヴァン・モファットがアクションとスティーヴ・マックィーンの役を拡張した。当初のカリフォルニア撮影案は、600人を超えるエキストラ費用の削減交渉がまとまらず、ユナイテッド・アーティスツからの融資390万ドル以内に収めるため全編ドイツ撮影へ変更され、バイエルン・スタジオの国有林には約6週間で巨大な捕虜収容所が建てられた。出番の少なさに不満を持ったマックィーンが現場を離れると、配給会社は彼を不可欠と判断して追加脚本家の費用を認め、ヒルツ役の見せ場を増やしたが、実話にはないオートバイ場面が書かれた時期については証言が割れ、柵越えの大ジャンプを実演したのもマックィーンではなくバド・イーキンズである。The Numbersの現行データでは製作費約400万ドル、北米興収約1,174万ドルで、AFIも1963年の高興収作品の一つと記録している。規律と準備を描いた映画の舞台裏は、未完成脚本、予算交渉、主演俳優の離脱が並ぶ、制作陣自身にも脱走計画が要りそうな現場だったのである。
ジョン・スタージェスは、ポール・ブリックヒルの原作が刊行された1950年代初頭から映画化を望んでいた。しかし、多数の捕虜、収容所、トンネル、国外ロケを必要とする企画は費用がかかり、なかなか実現しなかった。監督した『荒野の七人』(1960)が成功したことで製作会社への発言力が増し、長年温めていた本作をようやく動かすことができた。
本作の脚本には六人の書き手が関わり、完成までに十一稿が作られた。最初の脚本をウォルター・ニューマンが書き、その後もW・R・バーネット、ジェームズ・クラヴェル、アイヴァン・モファットらが人物や場面を組み直した。撮影開始後も改稿は終わらず、多国籍の捕虜を一つの群像劇へまとめる作業が続いていた。
ジェームズ・クラヴェルは、英国人捕虜の人物像や会話を厚くするために脚本へ加わった。続くアイヴァン・モファットは、スティーヴ・マックイーンが演じるヒルツの出番を増やし、独房で野球ボールを壁へ投げ続ける動作を考案した。有名な反復音と落ち着かない身体の動きは、俳優の即興ではなく、改稿で人物を印象づけるために設計されたものである。
配給・製作を担ったユナイテッド・アーティスツは、女性客にも訴えるため、脚本へ女性の主要人物を加えるよう求めた。候補には「ミス・プリズン・キャンプ」と呼ばれる美女まで挙がったが、捕虜収容所を舞台にした物語には不自然だとしてジョン・スタージェスが拒んだ。結果として本作は、商業上の定石よりも収容所内の現実感を優先し、男性捕虜だけで進む群像劇になった。
脱走計画を率いるロジャー・バートレット役には、当初リチャード・ハリスが決まっていた。しかし別作品との日程が重なり、撮影へ参加できなくなったため、リチャード・アッテンボローが代わって出演した。アッテンボローは後年監督としても知られるが、本作では捕虜たちをまとめ、失敗の責任まで引き受ける静かな指揮官を演じている。
本作は当初、カリフォルニア州ビッグベア周辺に収容所を建てて撮影する計画だった。しかし、600人を超えるエキストラに必要な費用をめぐり組合との交渉がまとまらず、ユナイテッド・アーティスツから受ける390万ドルの融資枠にも収める必要があった。そこで製作陣は計画を変更し、撮影全体を西ドイツへ移した。
バイエルン州の国有林には、約500×300ヤードの広さを持つ捕虜収容所セットが建てられた。建設には六週間をかけ、バラック、監視塔、広場、鉄条網を一続きの空間として配置した。背景だけを描いたセットではないため、捕虜が看守の目を引きつける動きと、別の場所で進む脱走準備を、実際の距離を使って撮影できた。
収容所セットを建てた場所は、バイエルン州政府が管理する国有林だった。製作側は土地を借りる条件として、建設のために伐採した木一本につき二本を植え直すことを約束した。約500×300ヤードのセットは撮影後に撤去され、映画のために変えた森林を元へ戻す作業まで製作工程に含まれていた。
横から撮れるトンネルセット。木材と石膏で細長い断面を作り、土で覆いながら片側だけを開放し、その外側へカメラ移動用のレールを敷いた。俳優は狭い穴を進んでいるように演技でき、カメラは壁の外から同じ速度で並走できた。
収容所を何重にも囲む鉄条網は、俳優が接触しても大けがをしにくいゴム紐で作られた。広大なセットを囲うには大量の線と結び目が必要だったため、専門の美術スタッフだけでなく、待ち時間の出演者やスタッフも製作を手伝った。金属に見える障害物の量感は、現場全体による手作業でそろえられている。
本作でトンネル工事を監修したウォーリー・フローディは、1944年の脱走計画で実際に掘削と設計を担ったカナダ空軍の元捕虜だった。製作陣へ寸法、換気、土の隠し方、収容所の日常を助言し、撮影中は毎日長時間セットに立ち会った。再現されたトンネルが当時の記憶を呼び起こし、帰宅後に悪夢を見ることもあったという。
史実の舞台となった第3空軍捕虜収容所は、現在のポーランドにあたるザーガンにあった。撮影当時は東ドイツ側からしか近づけず、冷戦下で西側の製作陣が現地を使うことはできなかった。そのためウォーリー・フローディの記憶や資料を基に、西ドイツのバイエルン州へ収容所全体を再現した。
スティーヴ・マックイーンは、多国籍の群像劇の中でヒルツに十分な見せ場がないと不満を示し、一時撮影現場を離れた。製作陣は追加の脚本家を呼び、独房での野球やオートバイによる逃走など、ヒルツを単独で追う場面を増やした。ただし、現場を離れていた正確な日数と、オートバイ場面がどの時点で決まったかは関係者の証言が一致していない。
ヒルツがオートバイで国境の柵を飛び越える場面は、スティーヴ・マックイーン本人ではなく、友人のバド・イーキンズが担当した。報酬は750ドルで、イーキンズにとって初めての長編映画スタントだった。撮影には英国製のオートバイを使い、外装を変えてドイツ軍の車両に見せている。
スティーヴ・マックイーンは、ヒルツが逃げる側の走行だけでなく、彼を追跡するドイツ兵のオートバイも一部運転した。軍服を替え、別の方向から走った素材を編集で組み合わせたため、完成した追跡場面にはマックイーンが自分自身を追いかける瞬間が含まれている。ただし、柵越えの大ジャンプだけはバド・イーキンズが担当した。
ヘンドリーとブライスが乗る小型機の不時着では、第二班監督のロバート・E・レリアが自ら操縦席へ入った。低空で機体を接地させる危険な撮影だったため、助手席にはドナルド・プレザンス本人ではなく、彼に似せた人形を固定した。操縦、墜落スタント、第二班の演出を同じ人物が担った場面である。
偽造書類を作るコリン・ブライス役のドナルド・プレザンスは、第二次世界大戦中に英国空軍の搭乗員として出撃し、機体を撃墜されてドイツ軍の捕虜になった経験があった。撮影現場では当初その経歴を知られていなかったが、収容生活の細部について助言できる人物でもあった。視力を失いかけても役割を続けるブライスには、演者自身が知る捕虜生活の重さが重なっている。
ジェームズ・ガーナーが演じるヘンドリーは、脱走に必要な針金、身分証用のカメラ、衣服などを収容所内で調達する人物である。ガーナー自身も朝鮮戦争中、所属部隊で必要な物資を手に入れる役割を経験していた。軍隊の正式な支給だけでは足りない状況を知る俳優が、物を交換し、人へ取り入り、計画を支える調達屋を演じた。
トンネル掘りの中心人物ダニーを演じたチャールズ・ブロンソンは、ペンシルベニア州の炭鉱町で育ち、16歳から20歳まで実際に坑内で働いていた。地下の狭い場所で土を掘り、木材で壁を支える作業は、彼にとって完全に未知の動作ではなかった。ただし、本人も閉所恐怖症だった、掘削方法を現場で指導したという話は別の主張であり、当事者証言を確認できていない。
本作にはドナルド・プレザンスのような連合軍側の捕虜経験者だけでなく、ドイツ側の将校や看守を演じた俳優にも従軍経験者がいた。戦争中に前線へ送られ、自ら捕虜になった経験を持つ出演者も含まれている。収容所長フォン・ルーガーと捕虜たちの対話は、戦争を外から想像した俳優だけで作られたものではなかった。
ドイツでの撮影開始後、激しい雨が続き、収容所の屋外場面を予定通り撮れなくなった。製作陣は日程を止めず、トンネル内部やバラックなど、天候に左右されないセット撮影を先へ移した。完成版では地上と地下の場面が交互に続くが、実際の撮影順は空模様に合わせて大きく組み替えられている。
一つの町で各国を演じた。予算を抑えるため、駅、田園、山道、国境、町の場面の多くを西ドイツのフュッセン周辺で撮影した。限られた地域の地形、建物、看板を使い分け、広いヨーロッパを移動しているように見せている。
予算が膨らんだ際、製作側は銀行へ約100万ドルの追加融資を求めた。審査する役員たちは、捕虜が軍服のまま逃げればすぐ見つかるため、民間服を作る工程が必要だと説明されて初めて脱走計画の規模を理解した。一度は配給会社の判断で削られていた衣服作りの場面が脚本へ戻され、追加資金を引き出す材料にもなった。
ジョン・スタージェスは、作曲家エルマー・バーンスタインへ本作の脚本を読ませなかった。代わりに監督自身が物語を最初から最後まで口頭で説明し、どんな映画にしたいかを伝えた。バーンスタインはその話を基に、脱走の緊張だけでなく、捕虜たちの連帯と反抗心を表す行進曲を書き、スタージェスは録音にも細かく口を出さず任せた。
史実の脱走は1944年3月24日夜に行われ、76人がトンネル「ハリー」から収容所の外へ出た。しかし自由へ到達できたのは三人だけで、残る者の多くは再び捕らえられた。ヒトラーの命令を受け、再捕されたうち50人がゲシュタポによって殺害され、本作の終盤もこの戦争犯罪を物語の中心に置いている。
本作では米軍人のヒルツとヘンドリーが脱走後の大きな見せ場を担うが、1944年3月の実際の脱走者に米兵はいなかった。米軍人捕虜は計画へ関わった時期があるものの、脱走前に北収容区から別の区画へ移されていた。二人は特定の米兵をそのまま再現した人物ではなく、複数の経験や不屈の精神をまとめた映画上の合成人物である。
バートレットの核はロジャー・ブッシェル。それでも人物の中心には、捕虜たちの脱走組織を率い、三本のトンネルを同時に準備して多数を逃がす計画を立てた英国空軍少佐ロジャー・ブッシェルがいる。ジョン・スタージェスは複数の経験を合成人物へ集約しながら、計画の指揮系統は史実に残した。
実際の脱走計画では、収容所へある物を別の用途へ変える作業が徹底された。約4,000枚のベッド板をトンネルの支柱や床へ回し、約1,400個の粉ミルク缶をつないで換気設備や土の運搬具を作った。食器、毛布、衣服も脱走用品へ変えられ、600人以上の捕虜がそれぞれの作業を分担していた。
本作の冒頭には、物語の基本は真実だが、時間と場所を圧縮し、登場人物の多くを複数の実在者から作った合成人物にしたという説明が出る。600人以上が関わった作業を限られた主要人物へ集め、観客が役割を追える群像劇へ組み直したためである。同時に映画は、殺害された50人へ捧げる作品であることも明記している。
クライテリオン・コレクションは2020年、新しい4Kデジタル修復素材を使った本作のBlu-rayを発売した。これは4K UHD商品ではなく、4Kで修復した映像を収録するBlu-ray版である。1991年のジョン・スタージェスらによる解説、2003年の出演者・スタッフ解説、史実を扱うドキュメンタリーも収め、映画と実際の脱走計画を比較できる構成になっている。
本作は製作中、The Last Escapeという仮題で進められていた。「最後の脱走」と訳せる題名で、繰り返し脱走を試みてきた捕虜たちの最終計画を強調する名称だった。最終的にはポール・ブリックヒルの原作と同じThe Great Escapeが採用され、日本では『大脱走』として公開された。
脱走者たちが列車で各地へ散る場面では、ドイツ国鉄の協力を得て実際の路線と車両を使った。走行中の客車上へチャップマン・クレーンを設置し、車内だけでなく列車の外側や沿線を移動するカメラ位置を確保した。営業する鉄道の運行、安全管理、大型機材の動きを合わせて、追跡が広い地域へ拡大する感覚を作っている。
スティーヴ・マックイーンがドイツ撮影中に速度違反を繰り返したことは、関係者の回想でも語られている。一方で、警察に逮捕され短時間留置されたという話まで含めると、確認できるのは後年の二次資料に限られる。違反切符を受けたことと、身柄を拘束されたことを同じ事実として扱うには、当時の警察記録か本人・現場関係者の具体的な証言が必要である。
チャールズ・ブロンソンが16歳から20歳まで炭鉱で働いたことは本人のインタビューで確認できる。しかし、彼自身も閉所恐怖症だった、トンネル内の土の運び方を現場で指導したという二つの話については、本人や監督、技術顧問ウォーリー・フローディの証言が見つからない。炭鉱歴から劇中のダニーへ話が結びついたのかもしれないが、同じ恐怖まで本人の体験だったとは言わない方がよさそうだ。
国境の柵を越える完成版のジャンプをバド・イーキンズが担当したことは、製作記録で確認できる。スティーヴ・マックイーンがその前に同じ大ジャンプへ挑み、転倒したため交代したという説明は広く流通しているものの、今回確認した監督・第二班・イーキンズ側の記録では、その試技を特定できなかった。本人が通常の走行を多く担当した事実から、大ジャンプまで広げた可能性がある。
ハリソン・フォードが捕虜役のエキストラとして映っているという話には、出演記録、本人証言、撮影写真のいずれも見つからない。本作の主要撮影は1962年に西ドイツで行われた一方、フォードが映画の端役を得始めたのはその後のアメリカである。活動時期と場所がかみ合わないため、群衆の中のよく似た別人をフォードだと思ったのかもしれない。