主な参考資料
- Turner Classic Movies
- AFI
- YouTube
- BFI
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1977年公開。本作は当初スティーブ・マックイーンとバーブラ・ストライサンドの組合せで進められたが、両者が離れ、クリント・イーストウッドが監督・主演、ソンドラ・ロックが相手役を務める企画へ組み替えられた。撮影は1977年4月から6月にネバダ州とアリゾナ州で行われ、終盤の護送バスには約300人の射手を配置し、家屋倒壊、ヘリコプター墜落、バス銃撃など一度きりの実物特殊効果を連ねた。AFIが採録した制作記録によれば、特殊効果だけで約120万ドル、全製作費は約550万ドルで、失敗すれば撮り直せない破壊を予算の見せ場へ集中させている。The Numbersは北米興収を約3,540万ドルと集計し、AFIには翌年までの世界劇場レンタル/ブッキングが2,400万ドルに達したとの業界報道も残るが、これは総興収とは別の指標である。公開後には暴力描写が批判され、フェニックスの批評家投票でワースト級に入る一方、巨大な弾丸の見世物は作品の看板になった。警察腐敗を暴く物語を撮るために、本物の警察と道路を総動員して街を撃ち抜くのだから、映画産業の皮肉は弾痕より目立つ。
ブランド、マックイーン、ストライサンドを経て、主演二人が交代した。初期にはマーロン・ブランドとバーブラ・ストライサンド、その後はスティーヴ・マックイーンとストライサンドが想定され、最終的にイーストウッドとソンドラ・ロックへ交代した。マックイーンとストライサンドの組合せから、実生活でも共演関係にあった二人のロードムービーへ性格が変わったのである。
スタジオでは、本作を『ダーティハリー』(1971)シリーズの第4作へ変える案が実際に検討された。しかしクリント・イーストウッドは、ハリー・キャラハンなら危機をもっと早く見抜き、ベン・ショックリーのような失敗はしないと考えた。弱く不器用な新しい警官像を守るため、シリーズ化の提案を退けたのである。
クリント・イーストウッドが脚本で最も気に入ったのは、相反する男女が一緒に旅する関係だった。本人は『或る夜の出来事』(1934)や『アフリカの女王』(1951)のような昔ながらの二人ものとして説明している。一方、破壊場面の「やりすぎ」の感覚は脚本よりもさらに強めたと認めており、恋愛映画の骨格と漫画的な銃撃を意図的に同居させた。
主要撮影は1977年4月4日に始まり、ネバダ州とアリゾナ州でのロケは同年6月に終わった。物語上の移動経路と同じ二州を使い、特にフェニックス市街が大規模な終盤撮影の舞台になった。アリゾナ州の公式フィルモグラフィーにも、本作のロケ地としてフェニックスが記録されている。
同時代の業界紙が報じた製作費は550万ドルで、そのうち特殊効果だけで120万ドルを占めた。全体の約22%を、ヘリコプター墜落、家屋崩壊、車両爆破、バス銃撃などの破壊場面へ投じた計算になる。IMDbで流通する「特殊効果100万ドル」より、同時代資料の数字は20万ドル多い。
家屋、車、ヘリコプター、バスを実際に壊す特殊効果は、失敗しても同じ物をすぐ作り直せなかった。担当のチャック・ガスパーは「撮り直せなかった」と振り返り、クリント・イーストウッドは全ての破壊を一度でカメラへ収める必要があった。終盤のバスには300人の射手が参加したと同時代記事は伝えている。
終盤で装甲化したバスが浴びる弾丸は、ワーナー系の紹介文で8,000発超と宣伝された。撮影現場の弾薬台帳までは公開されていないため、厳密な実射数ではなく、権利者側が長く使用してきた宣伝上の数字として読むのが正確である。300人規模の射手を使ったという同時代報道とは整合する。
フェニックス市は終盤の市街撮影のため、主要道路を数日間閉鎖した。市が業界紙へ出した同時代広告によると、協力した警官は290人、警察の作業時間は延べ1万1,000時間を超えた。画面上の警察隊を映画スタッフだけで組むのではなく、都市機能そのものを撮影へ動員した規模だった。
クライマックスでバスが乗り上げる「市庁舎」の外観は、実際にはフェニックス・シンフォニー・ホールである。撮影地点は2nd StreetとAdams Streetの角にある正面入口で、当時は周辺のコンベンションセンターが未完成だったため、背景にセント・メアリーズ教会も見える。地元の舞台芸術機関が現在も映画による1977年当時の景観を紹介している。
イーストウッドは雑誌記事を読み、フラゼッタへ直接連絡した。クリント・イーストウッドはEsquire誌の特集を読んで本人へ電話し、ソンドラ・ロックとともにペンシルベニア州の自宅を訪ねて依頼した。完成した原画も二人が自宅まで受け取りに行っている。
ポスター制作でクリント・イーストウッドが示した見本は、フランク・フラゼッタの幻想画『Dark Kingdom』だった。フラゼッタは動きの大きい型破りな構図を複数考えたが、念のため添えた二人が正面に立つ案が採用された。現存するラフを見ると、本人の後年の記憶とは異なり、正面案も一度だけの思いつきではなく複数描かれていた。
ジェリー・フィールディングの音楽には、サックス奏者アート・ペッパー、トランペット奏者ジョン・ファディス、ギタリストのリー・リトナーらが参加した。しかし公開当時、演奏者の名前は映画の画面にもオリジナル・サウンドトラック盤にも記されなかった。後年、音楽研究者がフィールディングとの私信から参加者を復元した。
ソンドラ・ロックはクリント・イーストウッドと6本の映画で共演したが、二人の名前が作品タイトルより上に並んだのは本作だけだった。単なる共演回数ではなく、宣伝上もロックをイーストウッドと並ぶ主演として扱った例外的な一本である。
本作には公開年と同じ1977年に刊行されたノベライズがある。著者は別の小説家ではなく、映画脚本を書いたマイケル・バトラーとデニス・シュレアック本人で、Warner Books版は236ページだった。現在はバトラーの新しい序文を加えた再刊版も出ている。
全米公開後の1978年1月、U.S. Catholic Conferenceは本作を「condemned」と評価した。理由に挙げたのは、過剰な銃撃、継続的な罵語、裸体と性描写である。現在のMPAA区分とは別の宗教系評価だが、本作の漫画的な暴力が当時どのように受け止められたかを示す同時代記録である。
フェニックス市は道路閉鎖や警官の動員まで行って撮影へ協力したが、地元の映画批評家団体は本作を公開年の最低作の一つに選んだ。同時代のVarietyが1978年1月に伝えている。制作を支えた都市と、そこで作品を評価した批評家の反応が正反対になった珍しい例である。
興行資料には、世界で2,400万ドルと北米で3,540万ドルという一見逆転した数字が残る。前者は1978年の業界紙が報じた劇場予約・配給収入側の指標で、後者はThe Numbersが集計する観客のチケット売上に相当する北米興行収入である。対象地域だけでなく指標も違うため、二つを同じ「世界興収」として比較してはいけない。
【ネタバレあり】クリント・イーストウッド演じるベン・ショックリーは、銃撃戦だらけの本作で最後まで誰も殺さない。扉の錠やバイクの燃料タンクへは発砲するが、人間を撃ち殺す場面はなく、終盤で黒幕にとどめを刺すのはガスである。『ダーティハリー』(1971)のような敏腕刑事へ変えなかった人物設計が、結末の行動にも一貫している。
ガセビア:フランク・フラゼッタが本作のポスター1枚に2万ドルを受け取ったという有名な数字がある。しかし関係者の検証では、本人夫妻が後年語った金額は2万ドルより低い場合も高い場合もあり、原画代として別に5,000ドルを受け取ったという話とも混線している。契約書や支払記録が見つからない限り、2万ドルを確定額にはできない。
ガセビア:エンドクレジットにジェームズ・モフェットの「First aid」という役職があること自体は確認できる。しかし「応急手当担当をクレジットした映画史上初の作品」という説は、先行作品のクレジットを網羅した調査や業界記録で裏づけられなかった。存在するクレジットと「史上初」という評価は別の事実である。
ガセビア:銃撃で崩れる家に「25万ドルをかけ、7,000個の穴を開け、15人が1か月かけて火薬を仕込んだ」という細かな説が流通している。家屋を実際に崩し、撮り直せない一発勝負だった点は同時代記事で確認できるが、費用・穴数・人数・期間の組合せまでは裏づけられない。大規模な実物効果だったことと、細部の数字が確定していることは分ける必要がある。
【ネタバレあり】ガセビア:テスト試写のクライマックスで観客の大半が一斉に「バスのタイヤを撃て」と叫んだ、というワーナー幹部由来の逸話がIMDbで流通している。しかし幹部の氏名、試写日、会場、同時代の試写記録を確認できなかった。映画を見た観客が抱きやすい疑問を、後から試写の逸話へ仕立てた可能性も残る。