主な参考資料
- AFI
- Turner Classic Movies
- Los Angeles Times
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製作者マーティン・ランソホフは『昼下りの決斗』(1962)を見て、ポーカーを銃撃戦のように扱う西部劇としてサム・ペキンパーを初代監督に選んだ。ペキンパーが脚本にない場面を製作側の許可なく撮影すると、製作側はペキンパーを解任し、初期素材を破棄して撮影を停止した。後任のノーマン・ジュイソンは、ドリス・デイ主演の喜劇からドラマへ移る機会として本作を引き受ける一方、脚本の全面改稿を条件にテリー・サザーンを招き、舞台もセントルイス案からニューオーリンズへ戻した。スペンサー・トレイシーは脚本承認と役の拡大をめぐる対立後に離れ、トレイシーとの共演を参加理由の一つにしていたスティーヴ・マックィーンが落胆するなか、エドワード・G・ロビンソンが後任となった。ジュイソン体制の撮影は1964年12月21日に再開し、80人の班がニューオーリンズで8日間撮影した後、1965年3月12日に終了した。ポーカー場面にはマジシャン兼専門家のジェイ・オースが技術顧問として入り、ラロ・シフリンはレイ・チャールズが主題歌を断る場合に備えてビル・ヘンダーソンのオーケストラ版デモまで用意した。
Filmwaysは、リチャード・ジェサップの小説『The Cincinnati Kid』(1963)の映画化権を1964年2月に取得し、当初はジェサップ本人を脚本家として契約した。その後、脚本担当はパディ・チャイエフスキー、リング・ラードナー・ジュニア、テリー・サザーンらへ移っていった。本作は原作者の脚本をそのまま撮った映画ではない。
製作者マーティン・ランソホフは、『昼下りの決斗』(1962)を見てサム・ペキンパーを初代監督に選んだ。ランソホフが求めたのは、銃撃戦の代わりにカードを使う西部劇であり、ペキンパーは舞台をニューオーリンズからセントルイスへ移す準備も進めた。現在の本作とは異なる演出案が、実際に撮影まで始まっていた。
サム・ペキンパーは主要キャストを帰した日に女性エキストラを集め、脚本にない場面を製作側の許可なく撮影した。ペキンパーがその映像を自分版に使うと答えた後、製作側はペキンパーを解任し、撮影を一時停止して初期素材を破棄した。単なる名義変更ではなく、撮影済みの本作を最初から組み直す監督交代だった。
ノーマン・ジュイソンは、ユニバーサルでドリス・デイ主演の喜劇を撮り続けた後、ドラマへ進む機会として本作を引き受けた。ただしジュイソンは渡された脚本を重く感傷的だと判断し、全面改稿を条件にテリー・サザーンを招いた。監督交代は、画面だけでなく脚本の調子まで変えた。
リング・ラードナー・ジュニアは、サム・ペキンパーや出演者と約1週間の読み合わせを行い、その場で台詞を調整した。ラードナーがニューヨークへ戻った後にペキンパーは解任され、ノーマン・ジュイソンは舞台をニューオーリンズへ戻してテリー・サザーンを新稿へ加えた。完成版ではラードナーとサザーンが脚本クレジットを分け合った。
スペンサー・トレイシーは、脚本の承認と自分の役を広げる要望をめぐって製作者マーティン・ランソホフと折り合えず、撮影直前に本作を離れた。エドワード・G・ロビンソンが後任となったが、スティーヴ・マックィーンはトレイシーとの共演を目的の一つにして参加していたため落胆した。スター交代は、主演俳優の参加理由そのものを変えた。
ノーマン・ジュイソンの準備期間を置いた後、本作の撮影は1964年12月21日にMGMのカルヴァーシティ撮影所で再開した。80人の撮影班はニューオーリンズへ移動して8日間の実景撮影を行い、カリフォルニアへ戻って1965年3月12日に撮影を終えた。監督交代後の再始動には、撮影所と現地ロケの両方を組み直す作業が必要だった。
製作側は、マジシャンでポーカーにも通じたジェイ・オースを技術顧問に迎えた。オースはカードの扱いとポーカー場面を監修し、俳優の手元が勝負の緊張を壊さないよう支えた。終盤の配札が非常に珍しいことと、画面上のカード操作が無監修だったことは別問題である。
本作の編集を担当したのは、後に『ハロルドとモード/少年は虹を渡る』(1971)や『チャンス』(1979)を監督するハル・アシュビーである。ノーマン・ジュイソンとアシュビーは監督と編集者として本作を組み直し、その協働は後のジュイソン作品にも続いた。
撮影後の1965年9月、出演者アン=マーグレットが本作の主題歌をRCA Victorへ録音すると業界紙で発表された。しかし完成版と公式サウンドトラックで「The Cincinnati Kid」(1965)を歌ったのはレイ・チャールズである。公開前の歌手案は、そのまま完成版には残らなかった。
ノーマン・ジュイソンと製作者は、ラロ・シフリンの主題曲を気に入り、終幕で歌として繰り返すことを望んだ。シフリンはレイ・チャールズへ歌唱を依頼する一方、断られた場合に備えてビル・ヘンダーソンによるフルオーケストラのデモも完成させた。チャールズが引き受けたため、予備版は完成版に使われなかった。
本作は1965年10月15日、物語とロケの舞台になったニューオーリンズのセインガー劇場で世界初公開された。この上映はハリケーン救援基金のために行われ、7,246ドルを集めた。撮影地での初公開が、災害後の地域支援にも結び付いた。
本作の主要撮影は1964年11月30日に始まり、サム・ペキンパーの解任で一時停止した。ノーマン・ジュイソン体制で同年12月21日に再開し、1965年3月12日に終了した。約3か月半という暦上の期間には、旧体制の素材を捨てて脚本と撮影を組み直した中断も含まれる。
本作の最終勝負は「現実には絶対に起きない」と断定されることがある。ポーカー専門家マイケル・ウィーゼンバーグの計算では、問題の2手が続く確率は4,500万分の1より低いが、確率が低いことは不可能という意味ではない。ウィーゼンバーグは映像を再検討し、一部の賭け方に問題はあっても、勝負全体を演じられない手順とは言えないと以前の評価を修正した。