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1969年公開、原題『Tell Them Willie Boy Is Here』。脚本家エイブラハム・ポロンスキーにとって、ハリウッド・ブラックリストで監督の座を奪われて以来21年ぶりの監督復帰作であり、実在した先住民ウィリー・ボーイ追跡事件を西部劇として再検討した。ロバート・レッドフォードは『明日に向って撃て!』と同年の出演で、ポロンスキーは英雄的保安官ではなく、追跡を支える人種偏見と制度そのものへ視線を向けた。現場へ戻るまでに二十年以上を要した監督が、逃亡者の時間より長く業界から追われていたという事実こそ、この映画最大の背景である。
エイブラハム・ポロンスキーが劇映画を監督するのは、1948年の『悪の力』以来21年ぶりだった。下院非米活動委員会で他人の名を挙げることを拒み、ブラックリストに載った後も、偽名や名義貸しを通じてテレビや映画の脚本を書き続けた。しかし自分の名で演出する機会は失われたままだった。本作の追跡劇には、制度から締め出された本人の長い空白が重なっている。
監督復帰へ至る前、ポロンスキーはユニバーサルからテレビのパイロット脚本を依頼された。本人は断るつもりで「自分の名前をクレジットするなら受ける」と条件を出したが、ネットワークからは別の作家を勧めるような返答が来た。そこでユニバーサル幹部ジェニングス・ラングが反対を退け、実名での仕事が実現した。その関係が『刑事マディガン』の改稿を経て、本作の脚本・監督へつながった。
最初は二時間テレビ映画として提案された。当初は業界で「ワン・トゥエンティ」と呼ばれる二時間枠のテレビ映画として作る案だった。ところがユニバーサルのジェニングス・ラングが、劇場用長編にできる題材だと判断した。ブラックリスト後の監督復帰作は、テレビ向けの限定企画から映画館へ進路を変えて成立した。
ポロンスキーはハリー・ロートンの原作を最初に読んだとき、映画にするほどの関心を持てなかったと語っている。西部劇そのものにも特別な興味はなかった。ところが『刑事マディガン』の脚本作業中、ウィリー・ボーイ事件を、変わりつつある時代の価値観に押し流される1960年代の若者と同じ構造で捉え直した。過去へのロマンと現在の現実を衝突させられると気づき、映画化を決めた。
クーパーは実在人物ではなく複合された追跡者だった。複数の追跡者の機能をまとめ、映画用に作られた人物である。ポロンスキーはクーパーを、ウィリーを理解しながら組織の命令から逃れられない男として配置した。史実の集団的な追跡を二人の対決へ絞ることで、法を執行する側の迷いまで物語の中心にした。
ポロンスキーは二人の関係を、善い保安官と悪い逃亡者という西部劇の型では考えていなかった。本人の説明では、自分の運命を最後まで引き受けるウィリーが「本当の英雄」であり、権力構造の中で自分の役割を拒みながら、なおそこから離れられないクーパーが「反英雄」である。有名スターのレッドフォードを追う側へ置いても、映画の精神的な中心は題名役のウィリーに残された。
ウィリー役の選考では、スタジオが実際の先住民俳優を主役に起用しないことが前提になっていた。そこでロバート・レッドフォードが支持したのがロバート・ブレイクだった。映画は白人社会が先住民を追い詰める構造を批判する一方、主演の民族的当事者性については当時のスタジオ制度を越えられなかった。完成版の政治性と製作上の限界が、同じ配役に表れている。
先住民の台詞について、ロバート・レッドフォードは本作への参加経験を手放しで肯定していない。本人は、ポロンスキーが彼らに語らせる言葉が1930年代映画の人物のようで、読んでいて居心地が悪かったと振り返った。先住民を追い詰める社会を批判する脚本であっても、人物の声を作る段階では古いハリウッドの型から自由ではない。その矛盾を出演者自身が指摘していた。
レッドフォードが先住民の台詞や演出へ疑問を示すと、ポロンスキーは別の見方を示した。監督によれば、レッドフォードは当初作品を支持していたが、ロバート・ブレイクの演技へ高い評価が集まってから態度を変えたという。これは監督側の主張であり、批判内容への反証ではない。政治的な意図を持つ作品でも、公開後の語られ方は俳優への注目や自尊心をめぐる対立から切り離せなかった。
本作のクレジットには、撮影へ協力した先住民共同体として六つの居留地が記されている。ペチャンガ、モロンゴ、ロス・コヨーテス、ソボバ、アグア・カリエンテ、トレス・マルティネスである。ウィリー役には先住民俳優を起用できなかった一方、居留地の場面や地域の再現は、南カリフォルニアの複数共同体との接点を持って作られたことがクレジットに残る。
AFIの記録では、本作はカリフォルニア州サウザンドオークスでロケーション撮影を行った。ウィリーとローラが徒歩で進み、追跡隊が馬で距離を詰める物語では、地形そのものが両者の体力と時間を決める。乾いた丘陵と広い空を実景で撮ることで、追跡を数カットの移動ではなく、逃亡者の身体を消耗させる連続した距離として見せた。
撮影監督コンラッド・L・ホールは、鮮やかな原色が現実の見え方から離れていると考えていた。本作ではネガを数段露出過多にし、プリント工程で濃度を戻す方法を使った。そうすると青や緑の強さだけでなく、輪郭の鋭さも失われる。砂漠の空気、霞、埃を通して景色を見るような褪せた色調は、古いフィルムの退色ではなく、撮影時に色と解像感を意図的に壊した結果である。
ネガを露出過多にしてからプリントで戻す方法は、当時の安全な撮影手順から外れていた。ホールは慎重にテストを重ねたものの、ラボの担当者たちは強く不安を示し、支援者がいなければ止められかねない工程だったと語っている。画面の落ち着いた色は偶然の成功ではない。正常に撮れたネガを守ろうとする制作システムに対し、あえて情報を壊す選択を通した結果である。
1909年の南カリフォルニアを形にした衣装デザインは、イーディス・ヘッドが担当した。保安官や町の有力者、武装した追跡隊、居留地の人々は同じ時代に生きながら、布地、帽子、装備の違いで社会的な位置を分けられている。特に逃亡が長引くにつれて、ウィリーとローラの服は移動の負担を受け、整った追跡側との距離を身体の表面に残す。
ハリー・ロートンの『Willie Boy: A Desert Manhunt』は「ノンフィクション小説」として刊行され、ジェームズ・D・フェラン賞も受けた。しかし後年、ジェームズ・サンドスとラリー・バージェスは、従来の物語が白人側の新聞記事や追跡隊員の回想に大きく依存していると指摘した。二人はウィリーとカルロッタの親族への口述調査も行い、映画の土台となった「実話」が誰の記録で作られたかを問い直した。
原作者ハリー・ロートンがポロンスキーへ送った手紙には、ニューヨークの知人が本作に強く動揺したという話が残る。その人物はジャンル西部劇として見始めたが、映画が西部劇を気持ちよく成立させる条件を次々に壊していくため、単純な追跡の興奮へ乗れなかった。英雄と悪人を固定せず、追う側の正義にも疑いを置く演出は、公開当時から「型を崩す西部劇」として受け取られていた。
英国映画テレビ芸術アカデミー賞では、ロバート・レッドフォードとキャサリン・ロスが本作を含む出演によって主演男優賞と女優賞を受けた。ただし当時の部門は、現在のように一人一作品へ厳密に結びつく記録ではなく、その年の複数作品を併記して評価している。二人が本作で受賞したという説明は大筋で正しいが、「本作単独の演技だけで受賞」とすると実際の集計方法を単純化しすぎる。
米国公開時の本作は批評面で注目された一方、興行的な大成功にはならなかった。しかしデンマークではボディル賞の最優秀非ヨーロッパ映画を受賞している。アメリカ西部劇の形を借りながら、追跡する白人社会の正義を疑い、先住民の逃亡者を精神的な中心に置いた構成が、国外の映画賞でも作品単位の評価につながった。
1909年事件の完全再現、という説明は『夕陽に向って走れ』には単純すぎる。実在事件を基にしていても、映画は解釈と演出を含む史実ベースの西部劇として見るべきだ。
逃亡劇の迫力から、危険な場面を俳優本人だけがこなしたような話が混ざることがある。『夕陽に向って走れ』の緊張感は、荒野のロケーションと演出で作る追跡劇の空気によるものだ。
テレビ放送やソフト版の記憶が混ざると、『夕陽に向って走れ』にも場面違いの話が出やすい。確認できない差分は、まず編集版や記憶違いの可能性を分けたい。