1969年公開、原題『Tell Them Willie Boy Is Here』。脚本家エイブラハム・ポロンスキーにとって、ハリウッド・ブラックリストで監督の座を奪われて以来21年ぶりの監督復帰作であり、実在した先住民ウィリー・ボーイ追跡事件を西部劇として再検討した。ロバート・レッドフォードは『明日に向って撃て!』と同年の出演で、ポロンスキーは英雄的保安官ではなく、追跡を支える人種偏見と制度そのものへ視線を向けた。現場へ戻るまでに二十年以上を要した監督が、逃亡者の時間より長く業界から追われていたという事実こそ、この映画最大の背景である。
1909年のウィリー・ボーイ事件を基にしたことが、『夕陽に向って走れ』の出発点だ。追跡劇の形を取りながら、背景には実在事件の重さがある。
エイブラハム・ポロンスキーにとって、『夕陽に向って走れ』はブラックリスト後の復帰作として重要な位置にある。単なる西部劇ではなく、作り手自身の沈黙からの帰還も重なって見える。
ロバート・レッドフォードは『夕陽に向って走れ』で、追う側の保安官を演じている。正義の顔で追跡するだけではなく、事件の複雑さに揺れる距離のある追跡者だ。
ロバート・ブレイクは、追われるウィリー・ボーイを演じている。『夕陽に向って走れ』では、逃亡者を単なる悪人ではなく、社会の視線に追い込まれる悲劇の人物として見せている。
単純な追跡劇ではなく社会的視点があることが、『夕陽に向って走れ』の大きな特徴だ。誰が正義で誰が悪かをすぐに決めさせない修正主義西部劇の手触りがある。
英雄が悪者を倒す古典西部劇とはかなり違うのが、『夕陽に向って走れ』だ。逃げる者、追う者、見物する社会の目が絡む苦い西部劇として作られている。
キャサリン・ロスの存在は、逃避行の感情を支える重要な要素だ。『夕陽に向って走れ』では、恋愛が甘さではなく追いつめられる理由にもなっている。
砂漠の風景は、『夕陽に向って走れ』の追跡を孤独に見せる装置だ。広いのに逃げ場がない土地が、ウィリー・ボーイの閉じていく運命を強めている。
先住民表象をめぐる時代性も、『夕陽に向って走れ』を見る上で外せない。1960年代末の映画らしく、西部劇の定番を疑いながらも、当時の限界を含む複雑な視線がある。
ブラックリスト後の作家性がにじむため、『夕陽に向って走れ』は追跡劇なのに政治的な苦みが強い。権力に追われる人物を描く構図に、作り手の経験が響いている。
英雄譚より悲劇性が強いところが、『夕陽に向って走れ』の後味を決めている。西部劇の爽快さではなく、追跡が進むほど逃げ場が消えていく避けられない結末が残る。
史実と映画的脚色を分けて見る必要があるのが、『夕陽に向って走れ』だ。実在事件を土台にしていても、映画版は人物配置や視点を整えたドラマとしての再構成である。
1909年事件の完全再現、という説明は『夕陽に向って走れ』には単純すぎる。実在事件を基にしていても、映画は解釈と演出を含む史実ベースの西部劇として見るべきだ。
逃亡劇の迫力から、危険な場面を俳優本人だけがこなしたような話が混ざることがある。『夕陽に向って走れ』の緊張感は、荒野のロケーションと演出で作る追跡劇の空気によるものだ。
テレビ放送やソフト版の記憶が混ざると、『夕陽に向って走れ』にも場面違いの話が出やすい。確認できない差分は、まず編集版や記憶違いの可能性を分けたい。