主な参考資料
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2006年公開。宮﨑駿が『風の谷のナウシカ』以前から望みながら実現できなかったアーシュラ・K・ル=グウィンの原作を、アニメ制作経験のなかった息子・宮崎吾朗の監督デビュー作として映画化した作品である。ル=グウィンは宮﨑駿の作品を知った後、「映画にするならハヤオに」と映像化を認めたが、鈴木敏夫はジブリ美術館館長だった吾朗を選び、宮﨑駿はその起用に強く反対した。吾朗は複数巻に及ぶ原作世界を一作へまとめ、自ら絵コンテを描き、その完成から2週間足らずで作画へ入る制作を率いた。完成作を見たル=グウィンは自然描写などを評価する一方、自作とは異なる物語になったことや暴力への偏りに戸惑いを表明した。世界的原作の映画化だけでも難題なのに、そこへ監督未経験と父子対立まで積んだのだから、竜より手強いものは企画会議の中にいたようだ。
宮崎駿が「アースシー」の映画化を望んだのは、『風の谷のナウシカ』(1984)より前である。当時まだ三冊だったシリーズをアニメーションにしたいと原作者へ申し込んだが、宮崎作品を知らず、ディズニー型のアニメーションに否定的だったル=グウィンは断った。映画化が実現したのは、それから二十年以上後だった。
映画化を一度断ったル=グウィンは、友人ヴォンダ・N・マッキンタイアに勧められて『となりのトトロ』(1988)を見たことで宮崎駿のファンになった。後に日本語版翻訳者の清水真砂子が宮崎と知り合いだと分かると、まだ関心があるなら話し合いたいと伝えた。一度閉じた企画は、宮崎が作った別の物語によって開かれた。
ル=グウィンは宮崎側へ、第一巻と第二巻の間にある十〜十五年の空白を使う案を提案していた。その時期のゲドについて原作で分かるのは、やがて大賢人になったことほどで、映画なら自由に新しい冒険を描けると考えたためである。完成作はこの案を採らず、複数巻の人物と事件を一つへ組み替えた。
ル=グウィンが望んでいたのは宮崎駿による映画化だったが、実際に監督へ選ばれたのは長編制作未経験の宮崎吾朗だった。原作者側は、企画が常に宮崎駿の承認を受けると説明され、その理解の上で許諾した。しかし宮崎駿は実制作へ参加せず、この食い違いが完成後の失望の一因となった。
2005年にル=グウィン宅で許諾交渉が行われた時点で、制作準備はすでに始まっていた。席上には竜とアレンのポスター、宮崎駿が描いたホート・タウン案、それをスタジオの美術陣が仕上げた絵が持ち込まれた。原作者は完成後、自分たちが契約する前から映画が動いていた事実を記している。
鈴木敏夫が宮崎吾朗を監督候補と考えた理由は、アニメーション経験ではなく、三鷹の森ジブリ美術館での仕事だった。吾朗は建築未経験から美術館を完成させ、運営まで担い、宮崎駿の曖昧な要求にも実現できないものは受け付けなかった。その判断力と組織を動かす力を、鈴木は長編映画にも生かせると考えた。
鈴木敏夫は宮崎吾朗に、竜と少年が向き合う場面を縦から見た構図で描くよう求めた。宮崎駿が使わない角度をあえて課し、完成した一枚を見て監督として進められると判断した。その絵は宮崎駿の反対を押して企画を進める根拠となり、第一弾ポスターとして映画の顔にもなった。
宮崎駿は吾朗の監督起用に強く反対し、制作中の父子は同じフロアで口をきかない状態になった。互いの声が聞こえても接点を持たず、部屋ですれ違いそうになると引き返していたと鈴木敏夫は説明している。宮崎駿は、吾朗が描き上げた本編の絵コンテも見なかった。
ル=グウィン宅での許諾交渉中、宮崎駿は吾朗が描いた竜とアレンのポスターを指し、原作の表現として正しくないと批判した。竜と少年が目を合わせる構図がおかしいと原作者へ同意を求め、自分が描いたホート・タウン案の方が正しいとも主張した。映画化を認めてもらう席で、監督案への異議まで直接示したのである。
来ないと聞かされていた宮崎駿が、約140人の関係者が集まる初号試写へ突然現れた。制作中は絵コンテも見ず、吾朗と口をきかない状態だったが、試写後には色彩設計の保田道世を通じて短い感想を託した。「素直な作り方で、よかった」という一言を、吾朗は監督日誌へ記している。
宮崎駿は企画に反対し、実制作へ加わらなかったが、世界観について一度だけ大きな助言をした。無から架空世界を作ろうとせず、ヨーロッパ絵画から時代と主題に合うモデルを探し、その世界を一言で表す言葉を決めるというものだった。美術陣は絵画と歴史を調べ、荒廃したホート・タウンの設計へつなげた。
企画準備室に残されたメモとイメージ画は、A3・40ページのファイル7冊分に達した。保存されなかったものを含めれば、実際に描かれた量はその数倍だったと制作日誌に記されている。絵コンテに登場しない案も、建物の細部、衣装、人物の暮らし方へ形を変えて使われた。
ラ・トゥールとビザンチン美術を同じ街へ混ぜた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの光と闇、ビザンチン建築や壁画など、時代の異なる資料を組み合わせた。かつて壮麗だった都へ後世の人々が入り込み、古い建物を手直ししながら使い潰しているという歴史まで画面へ持たせている。
初期の人物設計では、テルーにギリシャ映画『春のめざめ』のヒロイン、老いたゲドにはクリント・イーストウッドの面影を取り入れた案が描かれた。身近な人やスタジオを訪れた客もスケッチし、紙の上で何度も配役を試している。アニメの既成記号だけでなく、実在する顔つきと身体から人物の重みを探った。
キャラクター設計が難航した後、制作陣は宮崎駿作品の人物造形を意識的に継承する方針へ切り替えた。宮崎吾朗は頭身、腰の位置、腕の長さ、肩、目の比率まで分解し、作画陣へ具体的に説明した。父の絵に自然と似たのではなく、長年見続けた造形を制作技術として言葉と図へ置き換えている。
宮崎吾朗は長編を監督した経験だけでなく、絵コンテを描くこと自体が初めてだった。過去のジブリ作品の絵コンテを机に置き、必要な画面を見よう見まねで組み立てた。一部は吾朗のラフを作画演出の山下明彦が清書し、二人の作業として全編の設計図を完成させた。
宮崎吾朗はジブリ美術館のピクサー展を準備した際に見た制作法を取り入れ、カード状の絵を壁一面へ貼り出した。スタッフが自由に全体を見て意見を出し、場面を描き直したり順番を入れ替えたりできる。個人で描き進めるジブリの絵コンテと、共同で物語を検討するカード方式を組み合わせた。
カード状の絵は畳一枚ほどのスチレンボードへ貼られ、ボード1枚が映画約5分に対応した。行き詰まると板を並べて全体を見渡し、場面の長さと物語上の位置を同時に確認した。初めて長編を設計する監督が、見えない上映時間を壁の面積へ置き換えた方法である。
2005年5月16日から、脚本とラフ絵コンテを並行して作る工程が始まった。画面を考える中で見つかった展開を文章へ戻し、脚本は6月6日、絵コンテは前半6月21日、中盤7月7日、後半8月25日と段階的に完成した。脚本を固定してから絵へ移すのではなく、文章と画面を往復している。
絵コンテの最終部が完成したのは2005年8月25日で、作画開始は9月6日だった。全編の設計を描き終えてから、作画スタッフが本格的に動き出すまで二週間もない。脚本と絵コンテを並行していた準備期間から、長い検証期間を挟まず本制作へ移った日程だった。
宮崎吾朗は全1236カットのレイアウトを確認し、そのうち400カット以上を自分で描いた。レイアウトは背景の構造、人物の位置と動き、カメラの見せ方を一枚へまとめる画面の設計図である。アニメーション監督として経験のなかった吾朗が、全体の約三分の一を直接設計した。
宮崎吾朗はレイアウトで厳密な遠近法に従わず、人物が強く意識しているものや、観客へ見せたい対象を実際の比率より大きく描くことがあった。建築として正確な空間を再現するより、登場人物の視線と感情を一枚の構図へ反映するためである。画面の大きさは距離だけでなく、物語上の重みでも決められた。
115分の本編は全1236カット、約7万6000枚の動画で構成された。原画の間をつなぐ線は描くだけで終わらず、舘野仁美と中込利恵を中心に藤井香織が加わった三人の動画検査が、人物の形と動きの乱れを確認した。大量の絵を同じ人物と世界として連続させる工程である。
韓国へ動画作業を依頼する際、完成した指示書を送るだけでは済ませなかった。動画検査担当は初日にソウルのDR MOVIE、翌日に約400キロ離れた釜山のスタッフを訪れ、線の拾い方、シートの記号、スキャン範囲などを直接講習した。二つの現場で同じ作画基準を共有してから量産へ入った。
背景にはTMKポスター紙を使い、ポスターカラーを日本画用の筆で塗った。最初に紙全体へ水を含ませるため、下塗りは紙が濡れている30分から1時間ほどの間に進めなければならない。途中で乾くと色の境目が残るため、草原や空の大きな色面は一気に作られた。
色彩設計の保田道世は、時間帯、天候、服の素材、人物の感情まで色へ反映した。制作日誌で紹介された一カットには約30色が使われ、黒目の中だけでも瞳孔、地の色、ハイライトの三色に分かれている。朝、夕方、夜では同じ人物の肌にも別の色を指定した。
本作の作画期間は2005年9月6日から2006年5月23日までの8か月17日だった。『千と千尋の神隠し』(2001)は16か月26日、『ハウルの動く城』(2004)は17か月6日を要しており、直前二作のおよそ半分である。その日程で1236カット、7万6000枚を超える動画を完成させた。
作画終了後、画像をスキャンしてから、紙に付いた小さな汚れを一枚ずつ除去した。同じ時期に音響スタッフは休日や深夜も使い、音の編集とファイナルミックスを進めた。2006年5月23日の作画終了から約一か月後、6月28日に上映可能な初号が完成している。
制作準備中、18歳の手嶌葵が歌うデモ音源がスタジオへ届いた。宮崎吾朗はその声に強く引かれ、歌だけでなく、演技経験のなかった彼女をテルー役にも起用した。感情を大きく演じる声優を先に選ぶのではなく、静かで切ない歌声から人物の台詞と佇まいを組み立てた配役である。
「テルーの唄」の場面だけ音を聞きながら編集した。歌、キャラクターの口の動き、カットの流れを合わせる必要があり、本作で唯一、音を聞きながらカッティングした。柔らかな人物の原画は賀川愛、夕暮れの背景は男鹿和雄が担当している。
鈴木敏夫が萩原朔太郎の詩「こころ」を宮崎吾朗へ示すと、吾朗は翌日に「テルーの唄」の歌詞を完成させ、さらに十日後には谷山浩子の曲と手嶌葵の歌が届いた。公開後、着想元の表示が将来消えるおそれを詩人の荒川洋治から指摘され、鈴木は判断不足を認めた。以後は曲を紹介する際に「こころ」から着想を得たことを必ず併記する方針となった。
寺嶋民哉の音楽には、スペイン北西部ガリシア出身のバグパイプ奏者カルロス・ヌニェスが参加した。サウンドトラックは通常の2chだけでなく、5.1ch音声も収めたSACDハイブリッド盤として発売された。映画館のように楽器を立体配置した音を、対応機器のある家庭でも再生できる仕様だった。
映画は第三巻『さいはての島へ』を軸に、第一巻の影、第四巻のテナーとテルー、さらに宮崎駿の『シュナの旅』の要素を組み合わせた。原作では異なる時期に属する人物と事件を同じ物語へ集めたため、設定だけでなく関係性や役割も映画独自に変わっている。英語題と同名の短編集一冊を映像化した作品でもない。
ル=グウィンは完成作へ厳しい異議を示した一方、動物を丁寧に扱う姿や、畑仕事、水汲み、馬を厩へ入れる動作を具体的に評価した。魔法の事件を急いで進めず、人が食べて暮らすための仕事へ時間を使った場面に、地に足のついた静けさを感じた。少なくともその日常には、自分のアースシーを認めたと記している。
ル=グウィンは、アレンが父を殺す冒頭を動機づけのない改変と見た。影という別人格による説明も物語の後半まで示されず、第一巻でゲドの影が生まれる過程とは違って説得力を持たないと批判している。さらに悪をクモという外部の敵へ集約し、倒せば問題が解決する構図は、善悪へ単純な答えを出さない原作の倫理と異なると述べた。
北米では2004年のテレビ版『ゲド〜戦いのはじまり〜』をめぐる映像化権契約が残っていたため、本作を2009年以前には公開できなかった。日本では2006年7月に封切られたが、米国の劇場公開は2010年8月13日である。約四年の差は、吹替制作の遅れではなく、先行する契約が切れるのを待った結果だった。
興行収入は76.5億円に達し、2006年に公開された邦画の首位となった。一方、『週刊文春』が批評家らの投票で選んだ「文春きいちご賞」では、同年のワースト1位である。大勢の観客を劇場へ呼んだ商業的成功と、原作改変や物語構成へ向けられた厳しい評価が同時に残った。
宮崎駿が完成度を危ぶんで実質的に監督を引き継いだという話がある。ただし、本人や現場関係者の証言、制作時の記録は確認できない。ありえる話ではあるものの、そのまま信じるには材料が足りない。
宮崎駿が初号試写の途中で席を立ち、完成作を最後まで見なかったという説がある。しかし、退席した時刻や、その後に戻らなかったことを示す試写記録は見つかっていない。途中で席を外したことがあったのかもしれないが、「一時間で退席して最後まで見なかった」とまでは言わない方がよさそうだ。
「テルーの唄」は萩原朔太郎「こころ」と似ているため、法的に盗作と認定されたという話がある。しかし、そのような判断を示す裁判資料や公式説明は見当たらない。作品の類似と法的な盗作認定は、分けて考えた方がよさそうだ。
親子関係や企画経緯への関心から、『ゲド戦記』には宮崎駿が全編を作り直したかのような噂が流れることがある。話が膨らみやすい題材だが、完成作の制作責任を単純に入れ替えて語る根拠はない。