1960年公開、主演兼製作のカーク・ダグラスが、撮影開始後に解任されたアンソニー・マンの後任として、当時31歳のキューブリックを招いた大作である。だが監督は雇われる立場で最終決定権を持たず、ダグラス、脚本家、スター俳優、スタジオの要求が交差する現場で、自作としては例外的な制約を受けた。脚本のダルトン・トランボはハリウッド・テンの一人として偽名執筆を強いられていたが、ダグラスは本名をクレジットし、ブラックリスト崩壊を早める象徴的な決断となった。大群衆と巨大セットを使う撮影では、倒れた多数のエキストラを番号札で管理してから本番で札を外すほど、反乱軍にも撮影所らしい台帳が必要だった。製作費は約1,200万ドル、The Numbersの世界興収は約6,000万ドルで、当時のユニバーサルに大きな成功をもたらした。自由を描く映画の監督だけが自由ではなかったという経験が、キューブリックを以後の完全統制へ向かわせたのである。
1958年、ユル・ブリンナー主演、マーティン・リット監督、ユナイテッド・アーティスツ配給という別の『スパルタカス』企画が発表されていた。カーク・ダグラス側はダルトン・トランボに脚本を急がせ、ローレンス・オリヴィエ、チャールズ・ロートン、ピーター・ユスティノフの出演承諾を材料にユニバーサルへ持ち込んだ。同じ古代ローマの反乱を扱う競争は、俳優と脚本を先に揃えたダグラス側が制した。
参考情報:AFI(米)
原作者ハワード・ファストは自作の脚本化を試みたが、映画脚本の形式にまとめきれなかった。製作者エドワード・ルイスは、ブラックリスト下でスタジオへ出入りできず、本名も使えなかったダルトン・トランボへ依頼した。原作はローマ人たちが反乱指導者を回想する構造だったため、トランボはスパルタカス本人を物語の中心へ置き直した。契約と売り込みでは、ルイスが脚本家の名義を引き受けた。
参考情報:公開資料
ブラックリスト下のダルトン・トランボは、当初エドワード・ルイスの名を借りて脚本を書いた。完成版では本名が表示され、十年以上続いた排除を崩す象徴になった。ただし、カーク・ダグラスが一人で危険を引き受けたという後年の説明に対し、ルイスはトランボ本人がクレジット獲得の戦略を立て、自分がユニバーサルとダグラスを説得し続けたと証言している。功績は一人の英雄譚ではなく、複数人の交渉として捉える必要がある。
参考情報:公開資料
撮影開始時の監督はアンソニー・マンだった。だが製作・主演を兼ねるカーク・ダグラスは、ローレンス・オリヴィエら大物俳優と巨大な撮影規模をマンが統率できないと判断し、開始直後に解任した。代役として『突撃』で組んだスタンリー・キューブリックが急遽呼ばれた。ピーター・ユスティノフによれば、完成版に残ったマンの撮影部分は、冒頭でスパルタカスが働かされている塩鉱場面である。
参考情報:AFI(米)
キューブリックは撮影開始後に呼ばれた雇われ監督であり、製作者カーク・ダグラスやユニバーサルが脚本、配役、編集の最終権限を握っていた。撮影監督への指示や画面設計には強く介入できても、物語の方向や完成版を自分の判断だけで決めることはできなかった。この経験以後、キューブリックは製作にも関与し、企画段階から自作の統制権を契約で確保するようになった。
参考情報:映像ソフト公式(米)
製作者エドワード・ルイスが粗編集をダルトン・トランボに見せると、奴隷側の生活と人物像が足りず、ローマ側だけが魅力的に見えると指摘された。トランボは食事、踊り、共同生活を含む奴隷キャンプの短い場面を多数書き、ユニバーサルのバックロットで再撮影した。その改稿の中から、捕虜全員が一人の指導者を守るため同じ名を名乗る「私はスパルタカスだ」の場面が構想された。
参考情報:公開資料
製作者エドワード・ルイスは、まだダルトン・トランボの本名を明かせず、自分が脚本家だと扱われる状態でロンドンへ渡った。そこでローレンス・オリヴィエ、チャールズ・ロートン、ピーター・ユスティノフへ出演を依頼し、三人から承諾を得た。国際的な名優を先にまとめた脚本と配役のパッケージが、ユニバーサルに巨額の史劇を製作させる担保になった。
参考情報:公開資料
製作費は当初約500万ドルと見積もられていたが、1959年夏には900万ドルまで増え、最終的なユニバーサルの資料では約1200万ドルに達した。監督交代、長期撮影、スペインでの戦闘ロケ、巨大セット、数千人規模の出演者、俳優の負傷や病気による中断が同じ予算へ重なった。後年の比較では、当時のユニバーサル社そのものの買収額を上回る規模だったと指摘されている。
参考情報:AFI(米)
決戦場面にはスペイン軍が協力し、スタジオ宣伝では数千人、資料によっては8000人や5万人の動員と紹介されてきた。だが製作者エドワード・ルイスは、実際には数百人規模の兵士を丘の向こうへ回し、同じ部隊を繰り返しカメラ前へ進ませたと証言している。画面を埋めるローマ軍の長い列は、実人数の多さだけでなく、丘で入口と出口を隠す反復動線によって作られた。
参考情報:資料・アーカイブ
決戦でローマ兵の腕が切り落とされる場面には、実際に片腕を失っていた俳優ビル・ライシュが参加した。欠損部へ血糊入りの義肢を装着し、カーク・ダグラスが本物の剣で決められた箇所を打つことで、刃が腕を断つ効果を一続きに撮った。危険が大きく、最初の撮影が成功したため、ダグラスは同じ動作をもう一度行うことを拒んだと伝えられている。
参考情報:公式資料
撮影にはスーパーテクニラマ方式が使われた。35ミリフィルムを通常の縦方向ではなく水平に走らせ、一コマへ広い面積を記録し、上映用には70ミリへ拡大する方式である。重い機材と大きな画面設計が必要だったが、スペインの平原を埋める軍団の幾何学的な隊列と、前景にいる指揮官の動きを同じ横長画面で読める情報量を確保できた。
参考情報:公式資料
元写真家のキューブリックは構図、レンズ、照明まで細かく指定し、ベテラン撮影監督ラッセル・メティと決定権をめぐって激しく衝突した。後年、メティが現場を離れ、監督が撮影の大半を代行したという話まで広がったが、その割合を示す制作記録は確認できない。正式な撮影監督はメティであり、完成したカラー撮影に対する1961年のアカデミー撮影賞も彼へ授与された。
参考情報:映画専門誌(米)
ソール&エレイン・バスはタイトルだけでなく戦闘と養成所も設計した。ビジュアル・コンサルタントとして決戦の絵コンテ、剣闘士養成所の構想、塩鉱ロケ地の調査まで担当し、本編の大規模な画面設計へ関わった。冒頭タイトルはエレイン・バスとの本格的な初共同作業で、ローマ彫刻の横顔が重なって権力の顔を作り、最後に亀裂から崩壊する流れを設計した。
参考情報:資料・アーカイブ
冒頭タイトルのローマ像は、高価な特殊効果用模型ではなく、スタジオ近くで一個30ドルほどで買った石膏像だった。エレイン・バスは文楽で黒衣が人形を操る方法を着想源に、黒い布と手袋で画面へ入り、撮影中に少しずつ破片を外した。カメラをコマごとに微小に前進させ、像の亀裂を段階的に増やすことで、帝国の威厳ある顔がゆっくり内部から崩れる映像を作った。
参考情報:資料・アーカイブ
作曲家アレックス・ノースは、資料の乏しい古代ローマ音楽を一種類の考証音として復元する方法を取らなかった。イスラエルの笛、中国のオーボエ、ユーゴスラビアの笛、リュート、マンドリン、ダルシマー、バグパイプ、初期電子楽器オンドリーヌなど、異なる地域と時代の音を集めた。実在したローマの音ではなく、1960年の観客が聴き慣れない響きの組み合わせから古代世界を構築した。
参考情報:アカデミー資料(米)
チャールズ・ロートンは、グラッカスとバタイアタスの関係が脚本上で十分に機能していないと考え、元の台詞を拒んだ。ピーター・ユスティノフは、身分の違う二人を共通の体格と食への感覚で結び、ロートンと稽古しながら台詞と間合いを組み直した。キューブリックはその稽古を見た上で、二人が作った皮肉と親密さを撮影へ取り込んだ。
参考情報:AFI(米)
ヴァリニア役にはドイツ人俳優サビーネ・ベートマンが決まり、撮影準備も進んでいた。途中参加したキューブリックは感情表現が役に合わないとして交代を求め、ジーン・シモンズを起用した。当初はローマ人を英国系の発音、奴隷を米国系の発音で分ける方針があったため、英国人のシモンズを奴隷側の中心人物へ置くことは、配役だけでなく階級を声で分ける設計も変更する判断だった。
参考情報:AFI(米)
撮影中、ジーン・シモンズが緊急手術を受けて約六週間離脱し、カーク・ダグラスのインフルエンザでも五日間製作が止まった。さらにトニー・カーティスはダグラスとのテニス中にアキレス腱を傷め、かかとから膝まで固定され、出演場面を回復後へ送った。三人の主要人物が別々の時期に撮れなくなり、巨大セット、衣装、大人数の出演者を抱えた撮影順を何度も組み替える必要が生じた。
参考情報:AFI(米)
クラッサスがアントニヌスへ食の好みを尋ね、性的指向を暗示する「牡蠣とカタツムリ」の場面は、プロダクション・コード側から男性への欲望を示す台詞として削除を求められた。1991年の復元時には映像が見つかったものの音声が失われていた。トニー・カーティスは自分の台詞を録り直し、すでに亡くなっていたローレンス・オリヴィエの声は、物まねが巧みだったアンソニー・ホプキンスが補った。
参考情報:公式資料
1991年の修復時、オリジナル・カメラ・ネガは退色が進み、とくに黄色の情報が失われて印刷素材として使えなかった。修復責任者ロバート・A・ハリスらは、撮影当時に赤・緑・青を別々の白黒フィルムへ記録した色分解素材を使用し、三色を精密に重ねて新しい65ミリ保存ネガを作った。そこへ検閲や再公開時の短縮で失われた場面を可能な範囲で戻し、後年の4K版もこの1991年版を基礎にした。
参考情報:新聞社(米)
ハースト・キャッスルのネプチューン・プールをクラッサス邸にした。カリフォルニア州サン・シメオンにあるハースト・キャッスルのネプチューン・プールと階段を使った。製作者エドワード・ルイスが困難とされた撮影許可を取りつけ、新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが築いた豪邸を、奴隷と軍隊を所有する古代ローマの最高権力者の空間へ転用した。
参考情報:資料・アーカイブ
ブラックリスト下のダルトン・トランボを実名で表示したため、反共団体は上映館の前でピケを行い、映画を共産主義的だと攻撃した。大統領就任を控えたジョン・F・ケネディは、その抗議線を越えて映画を鑑賞し、好意的な評価を示した。一本の史劇を見るという公的な行動が、脚本家の名前を隠すハリウッドの慣行が政治的な力を失いつつあることを示す出来事になった。
参考情報:公開資料
史実のスパルタカスは紀元前71年の最終戦で死亡したと考えられ、遺体は見つかっていない。戦後に約6000人の反乱参加者がアッピア街道沿いで磔刑にされた記録はあるが、指導者本人が捕虜となり、仲間が正体を隠すため同じ名前を名乗ったという記録はない。映画は別々の史実を組み合わせ、「私はスパルタカスだ」という連帯と、指導者の殉教を一つの終幕へ作り直した。
参考情報:公開資料
シルヴェスター・スタローンは、少年期にカーク・ダグラス主演の『ヴァイキング』と『スパルタカス』を見て、そこから『荒野の七人』へ映画体験が続いたと語っている。彼にとって重要だったのは、歴史考証よりも身体を張り、仲間を率い、犠牲を引き受けるヒロイズムだった。後に『ロッキー』や『ランボー』で自ら構築する主人公像の源流に、ダグラスのスパルタカスが置かれている。
参考情報:公開資料
カーク・ダグラスは後年、キューブリックがトランボの脚本を自分名義にするよう申し出たため、憤慨して本名をクレジットする決意をしたと回想した。ところが、その会合に同席したとされる製作者エドワード・ルイスは、会合そのものが存在せず、キューブリックがその発言をしたのも聞いていないと明確に否定している。トランボの実名表示は確認済みの歴史だが、それを一瞬で決めた劇的な逸話は当事者間で争われている。
参考情報:公開資料
磔刑されたスパルタカスの接写をキューブリックが編集で外し、長時間かけて撮影したカーク・ダグラスが激怒して折り畳み椅子で襲いかかったという説がある。二人が脚本、演出、編集をめぐって衝突したこと自体は複数資料で確認できる。一方、椅子を使った暴力行為については同時代の日報、第三者証言、本人の確認可能な原文へ到達できず、対立を誇張した可能性を残す。
参考情報:映画データベース
キューブリックは一日2セットアップで緻密に撮ることを望み、製作費を管理するスタジオは32を要求し、最終的に8で妥協したという話がある。長期撮影、予算増加、監督の細かな画面設計は別資料から確認できるが、この三つの数字を示す撮影日報、契約書、当事者の確認可能な発言原文には到達できない。制作条件を象徴する数字としては保留が必要である。
参考情報:映画データベース
ドラバとスパルタカスが死闘を命じられる直前、キューブリックがウディ・ストロードへプロコフィエフの協奏曲を聴かせ、その反応を撮影したという逸話がある。完成版のドラバは台詞で心情を説明せず、相手を見つめる表情と身体の緊張で葛藤を示している。一方、撮影中に音楽を流したという工程を裏づけるストロード本人、監督、音響スタッフの証言は確認できない。
参考情報:映画データベース
完成版の決戦とは別に、奴隷軍が戦うメタポントゥムの場面も大規模に撮影され、その後すべて削られたという説がある。スペイン軍と巨大な屋外ロケを使った作品だけに成立しそうな話だが、該当場面を記した撮影台本、日報、編集メモ、未使用フィルムの目録へは到達できない。現段階では、確認済みの決戦撮影と混ぜずに保留すべき未使用場面情報である。
参考情報:映画データベース