主な参考資料
- BFI
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1989年公開。ビートたけしを主演に深作欣二が監督する企画として進み、撮影前に北野武が監督席へ移ったことで生まれた映画監督デビュー作である。もっとも、製作者の奥山和由は後年、深作が単純に日程の都合で降り、その穴を主演俳優が偶然埋めたという通説を「都市伝説」として退けており、誕生経緯を棚ぼただけで説明するのは危うい。脚本の正式クレジットは野沢尚だが、北野は乾いた間、固定気味の画面、突然の暴力を前面に出し、テレビの「ビートたけし」とは別の作家名を一作で立ち上げた。興行成績は配給収入5億円とする資料があり、これは現在一般に使われる興行収入ではなく、映画館側の取り分などを除いた配給側の収入を指す。主演俳優を監督席へ移した企画は、会社の予定表より先に日本映画の進路まで変えてしまったのである。
出発点は保険金詐欺事件の映画化企画。奥山和由は、保険金詐欺事件を扱ったノンフィクション『旅人たちの南十字星』の映画化を深作欣二へ依頼した時期まで遡ると説明している。長く動いた実録企画が、主演者、脚本、設定を変えながら暴力刑事・我妻の物語へ組み替えられた。
長く流通してきた説明では、深作欣二がビートたけしのテレビ日程に対応できず降板し、北野武が代役を務めたことになっている。奥山和由は2024年、この説明を「全く違う」と否定し、深作本人から判断を委ねられた末、自分が降板を求めたと明かした。北野の初監督は偶然空いた席へ座っただけではなく、製作者が二つの演出方針から一方を選んだ結果である。
深作欣二は本番前に十回ほどテストを重ね、演技と動きを作り込む監督だった。一方、ビートたけしは自分のテレビ日程と演技の鮮度を理由に、本番一回で撮ることを求めた。奥山和由は二晩ほぼ眠らずに両立の可能性を話し合ったが、最後は二者択一となり、北野武の監督デビューへ賭けた。
深作欣二で進められなくなった後、奥山和由と鍋島壽夫らは四ツ谷の寿司屋二階で北野武へ監督就任を打診した。鍋島の回想では、北野はためらわず「はい」と答え、その後も決意を翻さなかった。奥山が撤回を予想していた間にも、北野は絵コンテなどの準備をすでに進めていたという。
北野武はFRIDAY事件後の謹慎が明けたばかりで、延期されていたテレビ収録を多数抱えていた。監督を引き受けても映画へ連続して拘束できず、撮影は一週間おきにしかできない条件で始まったという。深作のスケジュール都合で企画が止まったのではなく、制作側が北野の断続的な参加を承知して新しい撮影方法へ切り替えた。
監督就任を受けた奥山和由は、北野武が途中で決意を翻す可能性も考えていた。しかし北野は撤回せず、待っていたかのように絵コンテなどの準備を進めていたという。初監督でありながら長い歩行、静止した構図、突然終わる暴力を迷いなく配置できた背景には、撮影開始前に映像の順序を考える時間があった。
北野武が監督へ就くと、もともと決まっていた出演者は全面的に入れ替えられた。一方で、撮影の佐々木原保志をはじめとするスタッフは変更されず、深作欣二の現場を想定して集まったベテラン陣が初監督の北野を支える形になった。映画の画面には、北野が求める外れた構図と、既存の映画制作を知るスタッフの技術が同居している。
野沢尚の脚本には、人物関係を説明する会話や喜劇的な要素がより多く含まれていた。北野武は監督就任後、台詞を次々と削り、人物が何を考えているかを説明せず、歩く、見る、殴るという行動で進む構成へ変えた。完成作の長い沈黙は、無口な主人公を演じただけでなく、言葉を消す改稿から作られている。
北野武による大幅な改稿に野沢尚が反発し、脚本クレジットから自分の名前を外すよう求めたという逸話が伝わる。しかし完成した映画のエンドクレジット、松竹の公式作品資料、後年の映像ソフト書誌には「脚本・野沢尚」と残っている。削除要求の有無と、最終的に表示された名前は別の事実として扱う必要がある。
野沢尚は後年、『その男、凶暴につき』の出発点となった構想を『烈火の月』として小説へ作り直した。野沢尚公式サイトは、映画のノベライズではなく一編の新作として送り出す意図があり、「マトリの女」などの新人物を加え、主人公から脇役まで取材して書き込んだと説明している。映画で削られた物語をそのまま復元した本ではなく、脚本家がもう一度作り直した別版である。
奥山和由の中では、北野武が首を少し傾け、無言で立っているポスターの図像が先に浮かんだ。その身体へ「凶暴」という文字を入れる構成から、『その男、凶暴につき』という題名を決めたという。映画の内容を説明する題ではなく、観客が知るテレビの人気者を一枚の静止画で危険な人物へ変える宣伝設計から生まれた。
監督名には本名の「北野武」、我妻諒介を演じる俳優名には「ビートたけし」が使われた。同じ人物が映画の内側と外側で別々の名前を持ち、観客に知られたテレビ芸人と、新しく現れた映画監督をクレジット上でも分けている。後の北野映画で続く二つの名義の関係は、第一作から明確に置かれていた。
北野武は当初、劇伴を全部なくしてよいと考えていた。奥山和由はその方針を変えるためエリック・サティの音楽を聴かせ、了解を得るまで苦労したと振り返っている。久米大作はサティの『グノシエンヌ第1番』を軸に我妻の主題を組み、無音の長い歩行へ反復するピアノを置いた。
我妻が橋へ入り、画面の中を歩き続けるショットは約57秒と数えられている。近景でも十秒、中景では二十秒ほど切り替えない場面があり、事件を早く説明するより人物が距離を移動する時間を残した。固定した遠景で緊張をため、警告なく短い暴力へ切り替える方法は、後の北野映画にも繰り返される。
警察署へ向かう我妻を捉える場面で、北野武は人物の頭が画面外へはみ出す構図を望み、撮影部から反対されたという。北野は後年、照明やカメラが整いすぎていない映像を好み、専門家が失敗と考える素材も編集へ使うと説明している。第一作の不安定なフレーミングは、新人監督とベテラン撮影部が別々に考える「正しい画」の境界にある。
公開初日、北野武は観客の反応を確かめるため映画館へ忍び込んだ。ところが画面へ自分が現れるたびに客席から笑いが起こり、暗い暴力劇を作ってもテレビの人気芸人として見られていることを思い知らされたという。北野は後年、観客が芸人と俳優を区別してくれるまで十数年かかったと振り返っている。
北野武は後年、第一作を撮った時点ではカメラをどう動かすか十分に知らず、完成画面が「記念写真」のようになったと振り返っている。二作目、三作目を経て移動撮影を理解したという本人の説明は、固定カメラをすべて完成済みの美学として神格化しない視点を与える。技術的な制約と好みが重なった結果が、初期の静止した画面だった。
北野武が育った地域にはやくざが多く、実際の喧嘩は一発で終わるか、多くても数発で一方が引いたという。何十発も殴り合う香港映画や任侠映画の見せ場は現実には起こらないと考え、自作では突然の一撃で勝負を終わらせた。『その男、凶暴につき』で暴力が長い振付にならず、日常動作から急に発生するのは、この観察に沿っている。
市山尚三は松竹入社後まもなく、実質的には奥山和由の助手として本作へ参加した。当時の松竹には後ろ向きな空気があり、面白い仕事がなければ数年で辞めるつもりだったという。しかし撮影が始まると、日に日に傑作が出来上がる感覚を覚え、「こういうことがあるなら続けよう」と決めた。市山は後にプロデューサー、東京フィルメックスのディレクターとして活動する。
国内では2017年9月27日、『アウトレイジ 最終章』公開記念の北野武監督13作品一斉発売で初Blu-ray化された。収録時間は105分で、本編103分、映像特典は約2分である。制作証言を長時間収めた特典版ではなく、画質更新を中心にした商品であり、現場逸話の多くは書籍や後年の取材へ分散したまま残っている。
北米での再公開を手掛けたフィルム・ムーブメントは、既存の日本版ポスターをそのまま使わず、漫画家ベンジャミン・マラへ新しいイラストを依頼した。奥山和由が考えた日本初公開版は、無言で立つ北野武の身体へ「凶暴」の文字を置く静かな設計だったのに対し、再公開版は犯罪映画の熱量を前面へ出している。同じ作品が市場ごとに別の顔を与えられた。
公開初日に観客が自分の登場だけで笑ったと感じた一方、北野武は1989年度の横浜映画祭で監督賞、日刊スポーツ映画大賞で新人賞を受けた。翌年の日本アカデミー賞では主演男優賞候補となり、話題賞も得ている。テレビ芸人の余技として片づけられず、第一作から監督と俳優の両面が評価対象になった。
我妻が売人を問い詰めるトイレ場面では、平手打ちが23回繰り返される。短い暴力を一度で終わらせず、同じ動作を異常な長さで反復している。どこまで実打だったかは明らかではないが、殴打を爽快なアクションではなく不快な日常作業として見せる場面である。