主な参考資料
- Los Angeles Times
- Animation World Network
- Den of Geek
ソング・オブ・ザ・シー 海のうたを配信で見られるサービスを、確認できた範囲で掲載しています。未確認のサービスは公式サイトで探せます。
2014年公開。『ブレンダンとケルズの秘密』に続くトム・ムーア監督作で、アイルランドのセルキー伝承を、カートゥーン・サルーンを中心とするアイルランド、ベルギー、デンマーク、フランス、ルクセンブルクの共同製作で形にした。企画と資金集めには約3年を費やし、低予算のなかで紙に描いた線、水彩の質感、デジタル彩色と合成を組み合わせ、前作で紙を各国へ発送していた工程もTVPaintによるデータ共有へ改めた。アイルランド各地の風景と民話を調査しながら、画面は写実的な奥行きより円や渦巻きの平面的な意匠へ統一され、アカデミー長編アニメーション賞候補となった。大手スタジオが立体感を競っていた時代に、資金の薄さを画面の薄さにはせず、むしろ平面を武器にしたのである。
浜辺の死んだアザラシが、セルキー映画の出発点になった。トム・ムーアは浜辺の死んだアザラシを前に、民話が娯楽だけでなく、人間の行動を土地や動物へ結び付ける記憶だったと気づいた。だから本作の魔法は現実から逃げるためではなく、海と暮らす人々が失いかけた感覚を取り戻すためにある。
映画の中では、先史時代の石の模様と1980年代の家電が自然に並んでいる。監督が育った1987年を選ぶと、祖母の世代が身近に信じていた民話と、音楽プレーヤーや都市生活へ向かう子どもの世代を一つの画面に置ける。ベンの旅は海辺の家へ帰る冒険であると同時に、近代化の中で切れかけた土地の記憶へ戻る旅にもなっている。
海岸や崖の形が正確でも、空気が乾いて見えればこの映画のアイルランドにはならない。制作陣は研究旅行で土地の色、石の古さ、草の湿り方を共有し、手描き素材とデジタル合成を組み合わせた。モハーの断崖やベンブルベンを思わせる輪郭が象徴的に変形されても、観客が現地の風と水分を感じるのは、写実より体験を先に集めたからである。
灯台を囲む海は、背景ではなく、家族を引き離し、再び結び付ける存在である。その動きが機械的に見えれば、映画全体の感情も弱くなる。制作陣は波頭の形と揺れを手で描き、その小さな素材をCGで大きな海へ展開した。
母の声を楽器にして、姿がない場面にも残した。複数の演奏を別々に録音して重ねる作曲法の中へ声も織り込み、母の存在を音楽全体へ薄く広げた。結果として回想を減らしても、ブロナーが物語から消えた印象にはならない。
本作の画面では、円、渦、穴が海、記憶、通路、抱擁の形として繰り返される。その最初に置かれるcup-and-ringは、古代美術の引用であると同時に、母子を包む構図の設計図でもある。物語が進むと家族はその安全な円から外へ押し出されるため、冒頭では、タイトル表示そのものが、失う前の家と母の記憶として見えてくる。
欧州の独立系アニメーションは、一国だけで長編予算を集めにくい。本作は各国の助成、先行販売、専門スタジオを組み合わせ、監督が拠点を移動しながら素材を承認した。Skypeと制作管理システムも使われたが、文化背景の違う作画家へハーリング競技の道具まで説明する必要があったという。
ベンは物語の感情を背負い、意地悪さ、恐怖、後悔、勇気を顔と体で伝える。その一方で、国の違う多数のアニメーターが何千枚も描いても、同じ子どもに見えなければならない。初期の小柄で髪色も異なる案から長く調整されたのは、絵柄のかわいさだけでなく、演技と量産の条件を同時に満たすためだった。
監督は、コンピューターによって2D表現が自由になったと考えていた。昔のセル画では重ねられる層や色に限界があったが、デジタルなら木炭線、水彩、手描き効果、反復する背景動物を同じ画面へ置ける。本作でCGを探しても金属的な立体感が見えにくいのは、写実へ近づけるためではなく、手仕事の見た目を壊さず制作規模を広げるために使ったからである。
セルキーのコートは、変身ではなく別の顔を着る表現だった。セルキーのコートは、シアーシャが本来持っていた別の人格と居場所を目に見える形にしている。父が恐れからコートを捨てると、娘は安全になるどころか弱っていく。
マカは苦しむ者を罰したいのではなく、息子と同じ悲しみを二度と味わわせたくない。その善意が、感情を感じない石の状態を救済だと思わせている。父コナーや祖母も、子どもを守るために海や冒険から引き離そうとするため、魔女だけが特別に間違っているわけではない。
イェイツの詩は、妖精世界を単純な楽園として描かず、人間の世界に涙が多いからこそ子どもを誘う。その一節を母の声で冒頭へ置くと、海へ帰ったブロナーがベンを別世界へ呼んでいるようにも聞こえる。しかし映画の兄妹は人間の悲しみを捨てるのではなく、歌と旅を通じて受け止め直す。
シアーシャは歌によって石になった者を解き放ち、自分の家族も抑え込んでいた悲しみから動かす。その役割に「自由」という名が重なる一方、母の名には悲しみを思わせる響きがある。兄妹を海と街の間で運ぶフェリーまで「海の音楽」と名付けられているため、固有名詞を読むだけで、悲しみから歌を通って自由へ向かう小さな航路が見えてくる。
トム・ムーアは、主要人物それぞれに民話側の反映を持たせたと説明している。声まで共有させると、妖精の出来事は現実から切り離された寄り道ではなく、家族の問題を別の形で語り直す物語になる。コナーが悲しみを閉じ込める姿はマクリルの石化へ、祖母の過保護はマカの瓶へつながる。
映画は古代の妖精だけを民話として隔離せず、現代の祭りや日用品にも古い習慣の痕跡を残している。カブのランタンは一瞬しか映らないが、ハロウィーンが土地ごとに姿を変えてきたことを示す。魔法の存在を信じない街の人々も、知らないうちに昔の儀式を持ち歩いているのである。
灯台は人間が海を監視する場所であり、シアーシャにとっては隠された海の自分へ近づく通路でもある。階段を上る身体はまだ人間の姿だが、影だけが先にアザラシへ変わることで、二つの存在が同時に画面へ現れる。
ハロウィーンのバスに『ブレンダンとケルズの秘密』のアシュリンらしい人物が映り、二作品が同一世界だという見方があるという話がある。ただし、本人や現場関係者の証言、制作時の記録は確認できない。ありえる話ではあるものの、そのまま信じるには材料が足りない。
ベンの本の絵、パブ名、監督の似顔絵、祖母の車のナンバーが制作スタッフや共同製作国を示すという説がある。ただし、今確認できる資料には、この経緯を示す記録がない。本当なら面白いが、今のところは噂として聞くのがよさそうだ。ソフトを持っている捜査員は、該当場面を一時停止し、この指摘が画面と一致するか確かめてほしい。
シャナキー役は当初ミック・ラリーが予定され、2010年の死去後にジョン・ケニーへ変更されたという説がある。ただし、出どころまでたどれる当事者の証言や制作資料は見つかっていない。ありえる話ではあるものの、そのまま信じるには材料が足りない。
ハロウィーンのバスに映るランタンは、カボチャではなくくり抜かれたカブに見える。アイルランドの古い習慣を忍ばせた小道具らしいが、制作側の説明は見つかっていない。画面を止めて確かめたくなる小ネタだ。