主な参考資料
- 公式資料・映画資料機関
- 書籍・アーカイブ
- 公開資料・データベース
海と毒薬を配信で見られるサービスを、確認できた範囲で掲載しています。未確認のサービスは公式サイトで探せます。
1986年公開。熊井啓が日活時代の1970年に企画してから、会社のゴーサインが出ないまま16年を経て製作に至った、遠藤周作原作の映画化である。熊井は脚本も自ら担当し、「海と毒薬」製作委員会のもと、栃沢正夫の撮影、木村威夫の美術で、123分の白黒35ミリ作品として完成させた。奥田瑛二は、主演決定だと思って臨んだ短いオーディションの後、熊井が廊下を去る自分の後ろ姿を見て起用を決めたと、後年の取材で明かしている。熊井の地元・安曇野市の記録によれば、本作は1987年ベルリン国際映画祭の審査員特別賞・銀熊賞を受け、国内でもキネマ旬報ベストテン第1位や毎日映画コンクール日本映画大賞などの評価を得た。16年寝かせた重い企画を白黒で世に出し、賞まで連れて帰ったのだから、映画の良心にも長期ローンがあるらしい。
熊井啓は遠藤周作の原作を読んで1969年に脚本を書き、本人の了承も得たが、暗く衝撃的な題材のため製作主体がなかなか決まらなかった。1970年頃に日活で企画してから完成までなら16年、脚本化から数えると17年に及ぶ。資料ごとの「16年」と「17年」は矛盾ではなく、数え始めの違いである。
奥田瑛二は、役が決まった後の顔合わせだと思って熊井啓に会った。熊井は奥田を頭から足先まで黙って見て、台詞も読ませず「ありがとう」とだけ告げた。後に熊井から、実はオーディションであり、立ち去る後ろ姿が敗戦後に逃げていく主人公・勝呂に見えるかを判断していたと明かされた。
本作は、奥田瑛二にとって映画で初めて単独主演を務めた作品であり、熊井啓監督との最初の仕事でもあった。奥田は後年の取材で、熊井との出会いを自分の俳優人生を語る起点の一つとして振り返っている。
【ネタバレあり】生体解剖場面の一部は、助監督を務めた原一男が獣医師養成機関へ依頼し、生きた豚を脚本に沿って解剖する様子を撮影した。原は、豚の皮膚構造が人間に似ているため、肉や骨、鼓動する心臓が非常に生々しく見えたと証言している。撮影を担当したのも原本人だった。
【ネタバレあり】原一男の証言によると、熊井啓が生体解剖場面で意識していたのは、ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『巴里の空の下セーヌは流れる』(1951)の有名な手術場面だった。熊井はその映像を超えることを撮影上の目標にしていたという。
【ネタバレあり】手術室は、ベッドから医療器具まで戦時中に使われていた年代の品に合わせて構成された。さらに外科医が出演者へ手術の動作を指導し、器具の扱いが単なる芝居に見えないよう整えられた。
本作は1986年公開の新作ながら、全編を35mmの白黒で撮影した。国立映画アーカイブの所蔵記録では上映時間123分で、撮影は栃沢正夫が担当している。
原作者の遠藤周作は、題名の「海」を、恩寵や愛であってもよく、人間の内にある「毒薬」と対峙するものだと説明している。映画の題名は単に海辺の情景を指すのではなく、罪の意識をめぐる原作の中心的な対立を受け継いでいる。
【ネタバレあり】映画の原作小説は、第二次世界大戦中に起きた九州大学医学部生体解剖事件をモデルにしている。ただし、遠藤周作は事件の記録をそのまま再現したのではなく、手術に加わる勝呂と戸田を中心に、罪悪感や罰への恐れを問うフィクションとして構成した。
【ネタバレあり】助監督の原一男は、生体解剖場面の撮影経験が後の自作にもつながったと語っている。井上光晴を追ったドキュメンタリー『全身小説家』(1994)で手術を撮影した際、本作を経験していたため恐怖を感じなかったという。
本作のDVDには、熊井啓監督と奥田瑛二による約38分の対談に加え、オリジナル予告篇、絵コンテ、美術スケッチ、撮影風景の資料が収録された。完成映画だけでなく、制作過程をたどれる一次資料がホームメディアに残されている。
本作は第60回キネマ旬報ベスト・テンで1986年度の日本映画第1位に選ばれた。毎日映画コンクールでも日本映画大賞を受賞し、熊井啓の監督、木村威夫の美術、奥田瑛二の演技も評価された。
本作は国内公開の翌年、第37回ベルリン国際映画祭のコンペティションで銀熊賞・審査員グランプリを受賞した。国内の年間ベスト1だけでなく、海外映画祭でも評価された作品である。
【ネタバレあり】公開当時の劇場用ロビーカードの説明文によると、生体解剖場面で使われた血液には、スタッフから採取した本物が使われたという。ロビーカード現物の文面までは直接照合できていないため、採取した人数や方法までは断定しない。