主な参考資料
- AFI
- Turner Classic Movies
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本作は『勇気ある追跡』(1969)のルースター・コグバーンを引き継ぎながら、宣教師の独身女性と酒好きの男が川を下る『アフリカの女王』(1951)の組み合わせを意図的に重ねた企画で、AFIが参照したハル・B・ウォリス文書では、その類似が脚本の初期稿から組み込まれていたと確認できる。脚本名義のマーティン・ジュリアンはウォリスの妻マーサ・ハイヤーの筆名で、ハイヤーの回想ではウォリスとハイヤーが第1稿を書き、ジョン・ウェインとキャサリン・ヘプバーンが一部を書き直し、原作者チャールズ・ポーティスが仕上げを助けたが、稿ごとの分担は確定していない。監督候補にはラモント・ジョンソン、ディック・リチャーズ、リチャード・フライシャー、ジョン・G・アヴィルドセン、ジョン・ブアマンが挙がり、ウォリス側がリチャーズへ申し出たものの返答が遅れたためスチュアート・ミラーが就任し、同時期には西部劇作家クレア・ハフェーカーが契約違反でウォリスとUniversalを訴えたが結末は不明である。撮影は1974年にオレゴン州のデシューツ国有林、ローグ川、ベンド、グランツ・パス周辺で行われ、シェブリン公園では使用料の代わりに制作会社の15人の建設班が2週間かけて養魚場を修復する取り決めが結ばれた。ウェインとヘプバーンは『ブラニガン』(1975)とテレビ映画 *Love Among the Ruins*(1975)の撮影中にロンドンで会い、本作が唯一の共演となり、ウェインの後年の説明では乗馬用の代役が用意されていたにもかかわらずヘプバーン自身が馬へ乗ることを選んだ。The Numbersは北米興収を800万ドルと掲載する一方、同時代の配給収入は約450万〜480万ドルとされ、売上と配給会社へ戻る収入を同一視できないが、Varietyの年末評では製作者ウォリス最後の映画となった本作が期待を下回った作品として扱われた。
『アフリカの女王』(1951)との類似は、脚本の初期段階から意図されていた。AFIが参照したハル・B・ウォリス文書によれば、宣教師の独身女性と酒好きの男、川の急流という共通点は偶然ではない。本作は『勇気ある追跡』(1969)の続編へ、別の名作映画の男女関係と旅の構造を重ねた。
脚本名義のマーティン・ジュリアンは、マーサ・ハイヤーの筆名である。ハイヤーは俳優であり、製作者ハル・B・ウォリスの妻でもあった。Yaleには1974年7月22日付の決定稿がこの名義で保存され、画面上のクレジットにも同じ名が使われた。
第1稿の後、主演2人と原作者も脚本を直した。マーサ・ハイヤーの回想では、ハル・B・ウォリスとハイヤーが第1稿を書き、ジョン・ウェインとキャサリン・ヘプバーンが一部を書き直し、原作者チャールズ・ポーティスが仕上げを助けた。ただし、誰がどの場面を担当したかまでは確認できない。
監督候補は5人に及び、正式な申し出への返答遅れでミラーが就任した。ウォリス文書ではラモント・ジョンソン、ディック・リチャーズ、リチャード・フライシャー、ジョン・G・アヴィルドセン、ジョン・ブアマンが候補に挙がる。制作側はリチャーズへ申し出たが返答が遅れ、その結果ミラーが就任した。
脚本開発の裏では、西部劇作家クレア・ハフェーカーが契約違反訴訟を起こしていた。AFIによれば、訴えの相手は製作者ハル・B・ウォリスとUniversalである。現存資料から訴訟の結果は確定できないため、和解や勝敗までは書けない。
ジョン・ウェインとキャサリン・ヘプバーンが初めて組んだきっかけは、ロンドンでの別作品の撮影だった。ウェインは『ブラニガン』(1975)、ヘプバーンはテレビ映画 *Love Among the Ruins*(1975)のため滞在しており、二人はそこで会った。本作は、二人が映画で共演した唯一の作品となった。
キャサリン・ヘプバーンには乗馬用の代役が用意されていたが、本人が馬へ乗った。ジョン・ウェインは後年、代役が準備されていたにもかかわらずヘプバーンが自分で乗ることを望んだと語っている。ただし、この証言だけで全ての乗馬ショットを本人が演じたとは断定できない。
本作の川と山は、オレゴン州の実景で撮影された。画面上のクレジットとAFIはデシューツ国有林とローグ川を記録し、Oregon Filmは1974年の制作地としてベンド、グランツ・パス、ローグ川を挙げる。題名の「オレゴン」は、日本だけの印象付けではなく制作地そのものに結び付いている。
シェブリン公園のロケ代は、現金ではなく養魚場の修復で支払われた。地域史によれば、公園側は制作会社の手が空いていた15人の建設班を2週間借り、老朽化した施設を直してもらう条件で撮影を受け入れた。映画のセット建設を担う人員が、ロケ地の公共施設にも仕事を残したのである。
1974年8月26日付の改訂決定稿には「A Man of True Grit」という副題が付いていた。これは前作『勇気ある追跡』(1969)の原題 *True Grit* を直接引き継ぐ言葉である。完成版では副題が外れ、人物名だけの *Rooster Cogburn* になった。
「Rooster Cogburn (and the Lady)」は、完成版の正式題と断定できない。AFIはこの長い題名を使った批評が一つあると記録する一方、ほかの資料には報告がないと明記している。実在する表記ではあるが、一般的な別題として広げるには証拠が足りない。
『勇気ある追跡』(1969)から続投した俳優でも、同じ役を演じたとは限らない。判事パーカー役とチェン・リー役は本作で別の俳優へ交代した。一方、ストローザー・マーティンは前作にも出演しているが、本作では別人の渡し船船長シャンハイ・マッコイを演じた。
エディス・ヘッドは、ヘプバーンの衣装を「彼女のため」ではなく「彼女と一緒に」作ったと表現した。AFIのクレジットでも本作のヘプバーン衣装はヘッド担当とされ、展覧会には帽子が出品された。さらに「Katharine Hepburn Edith Head S-62」と記された茶色のスエード手袋も収蔵されている。
北米興収800万ドルと配給収入約450万〜480万ドルは、矛盾する数字ではない。前者はThe Numbersが掲載する劇場売上、後者は配給会社へ戻る取り分を示す別指標である。Varietyの年末評では、本作は期待を下回った作品として扱われており、数字を比べるときは集計対象を分ける必要がある。
「リチャード・フライシャーが監督に決まり、ジョン・ウェインが拒否した」というIMDb説は制作文書と一致しない。AFIが参照したウォリス文書では、フライシャーは複数の検討候補の一人で、正式に申し出を受けたのはディック・リチャーズだった。リチャーズの返答が遅れた結果、スチュアート・ミラーが監督へ就いたと記録されている。