1993年公開、ひこ・田中の児童文学を讀賣テレビが製作し、相米慎二の監督第10作として映画化した作品である。主人公レンコ役には、8,253名が応募したオーディションから演技未経験の田畑智子を抜擢し、学校の夏休みに合わせて7月から8月まで約1か月の撮影を組んだ。撮影監督の栗田豊通によれば、相米は従来の撮影方法から変わろうとしており、日本映画ではまだ一般的でなかった撮影監督方式を導入し、歌川広重の画面構成を視覚的な手掛かりにした。移動撮影ではドリー、クレーン、フォーカス、ズームを同時に合わせ、祭りの場面ではスタッフ総出で提灯を点灯して短いマジックアワーを狙うなど、子どもの自然さを撮るための裏側はまるで自然任せではなかった。初公開時の正確な単独配給収入は確認できず、映画製作者連盟の1993年配給収入上位表にも掲載されていないが、カンヌ国際映画祭「ある視点」部門への選出を経て、4K修復版は2023年ヴェネチア国際映画祭で最優秀復元映画賞を受賞した。数字の表からはこぼれた映画を、30年後には世界の映画祭が拾い上げたのである。
11歳の田畑智子は、8000人を超える候補からレンコ役に選ばれた。映画出演も演技も初めてで、きっかけは家族が営む京都・祇園の店で相米慎二と顔を合わせたことだった。完成作の奔放な主人公は、既成の子役技術ではなく、相米が本人の反応を引き出しながら形づくった役である。
参考情報:公開資料(日)
初演技の田畑智子は、撮影前の約3か月、助監督から発声や台詞、身体の使い方を教わった。完成していた脚本を覚えるだけでなく、長い場面の中で声と動きを持続させる準備だった。レンコの勢いは偶然の素顔だけではなく、撮影前から積み上げた訓練に支えられている。
参考情報:公開資料
撮影は夏休み中の約1か月半に及び、田畑智子は京都でスタッフと生活して家へ帰ることを許されなかった。毎日のように泣き、家族へ電話し、何度も辞めたいと思ったという。子役の負担を美談だけにせず見る必要がある一方、レンコの切迫した感情には11歳の主演が実際に置かれた環境も刻まれている。
参考情報:公開資料
長回しの場面では、朝から俳優とカメラの動きを組み、何度も稽古を重ねた。準備だけで一日が終わり、出演者が衣装へ着替えない日さえあったという。人物が偶然ぶつかり合うような生々しさは、無計画な撮影ではなく、空間全体を成立させるまで本番を待った結果である。
参考情報:公開資料
相米慎二は絵コンテを用意せず、撮影監督の栗田豊通と一つのショットを組みながら場面を育てた。先に完成した画面設計を再現するのではなく、人物と空間の動きから次の構図を見つけていく方法だった。複雑なカメラ移動は、固定された設計図より現場で生まれる関係を優先した結果である。
参考情報:公式資料
山の場面は数日かけて複数の山で撮った。撮影は数日にわたり複数の山で行われ、田畑智子は急斜面や泥の中を進み、現場で組み立てられた動きにも対応した。現実の地形をつなぎ合わせることで、レンコの感情だけが導くような異質な空間が作られた。
参考情報:公開資料(日)
あるロケ場面が成立せず、相米慎二がその日の撮影を打ち切ったことがある。中井貴一は控室へ戻ると、悔しさからクッションを投げたという。何度でも撮り直す現場は、初演技の田畑智子だけでなく、経験を積んだ俳優にも結果を簡単には与えない場所だった。
参考情報:公開資料
ミノル役の茂山逸平は、江戸初期から続く大蔵流狂言・茂山千五郎家の出身で、4歳で初舞台を踏んだ。映画では古典芸能を見せる役ではないが、少年役の一人には幼少期から客前で声と身体を扱ってきた経験があった。
参考情報:公開資料(日)
衣裳デザイナーの小川久美子は、桜田淳子演じる母ナズナの赤を「怒り」の色として選んだ。強い色は人物を華やかに見せる装飾ではなく、夫婦の関係を清算しようとする母の感情を背負っている。家の中を赤い服が移動するたび、レンコには抑え込めない大人の意志が迫る。
参考情報:公開資料
以前の修復版はフィルムを5Kで読み取っていたが、最終的な仕上げは2Kだった。新しい4K版では35mmオリジナルネガを改めて4K化し、撮影監督の栗田豊通が色と階調を監修した。1992年の暑い夏に撮られた光や暗部を、撮影当時の意図へ近づけるための再作業である。
参考情報:公式資料(日)
4K修復版は2023年のヴェネツィア国際映画祭クラシック部門で最優秀修復映画賞を受賞した。作品は1993年にカンヌ国際映画祭「ある視点」部門へ出品されており、30年後にはフィルムを保存し直した技術と判断も評価の対象になった。
参考情報:公式資料(日)