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1984年公開。まだスタジオジブリが存在しない時代、宮﨑駿の映画企画が「原作のない作品では難しい」と通らなかったため、鈴木敏夫が徳間書店の『アニメージュ』で漫画を連載させ、その成功を足場に映画化へ持ち込んだ作品である。宮﨑は映画化のために漫画を描くことを嫌い、「漫画にしか描けないもの」を始めたはずだったが、結局その連載中に自ら脚本・監督を引き受け、高畑勲は初めて映画プロデューサーを務めた。制作会社はジブリではなくトップクラフトで、既成のスタジオへスタッフを集める一作限りに近い体制だった。国内で91万5,000人を動員した内容・興行両面の成功が徳間書店を動かし、翌1985年のスタジオジブリ設立へ直接つながった。原作がなければ映画にできないと言った会社を納得させるため、監督が先に大長編漫画を描くことになったのだから、企画会議の慎重さも相当な制作費である。
本作の映画企画は、徳間書店から「原作のないものを映画にできるか」と退けられた。そこで宮崎駿は『アニメージュ』で漫画連載を始めたが、映画化のためだけの原作にはせず、漫画にしか描けない内容を目指した。映画を通すために始まった漫画が、やがて映画版には収まらない全七巻の物語へ育ったのである。
本作が公開された1984年、原作漫画はまだ物語の序盤しか描かれていなかった。映画版は未完の素材をそのまま切り出さず、王蟲の暴走とナウシカの帰還へ要素を集め、一本の映画として独自の結末を作った。漫画は映画制作などによる中断を挟みながら1994年まで続き、世界の成り立ちも国家関係も映画よりはるかに広がっていく。
本作は現在スタジオジブリ作品と並んで扱われるが、制作当時はまだ同社が存在していなかった。アニメーション制作を担ったのはトップクラフトで、本作の内容面と興行面での成功を受け、翌1985年に徳間書店を中心としてスタジオジブリが設立された。ジブリの第一作ではなく、ジブリを生む条件を作った映画なのである。
高畑勲は宮崎駿の要請を受け、本作で初めて映画プロデューサーを務めた。監督ではなく、宮崎が創作へ集中できるように資金、スタッフ、工程を成立させる実務を引き受けたのである。その仕事は翌1985年のスタジオジブリ設立でも生かされ、『天空の城ラピュタ』(1986)でも高畑プロデュース、宮崎監督の組み合わせが続いた。
十数枚の甲殻が少しずつ遅れて動く王蟲を描くため、制作陣は「ゴムマルチ」という仕組みを考案した。分解した王蟲の部品を平らなゴムへ貼り、ゴムを伸縮させることで節が順番に送られる動きを作ったのである。全てを別々のセル(絵を描く透明シート)で動かさず、物理的な変形を使って巨大な群れの重量感を出した。
学生時代の作品を持って制作会社を訪ねた庵野秀明は、その絵を見た宮崎駿に採用された。制作途中からの参加だったが、宮崎は崩れながら動く巨神兵場面の原画をまとめて任せた。鈴木敏夫が後に「道場破り」のようだったと表現した参加が、宮崎と庵野の長い師弟関係の始まりになった。
原画家の金田伊功は、トルメキア船が谷へ墜落して爆発するカットの煙に約3日を費やした。本人の回顧では、普段なら同種の絵を約5分で描くこともあったという。速さだけで押し切らず、煙の形と広がりを詰めることで、巨大な船体が落ちた重さまで見せる場面になった。
父を殺されたナウシカが兵士へ斬り込む場面で、宮崎駿は原画の鍋島修へ、一人を斬る時には視線を次の敵へ向けるよう繰り返し指示した。後方へ身体を丸めて跳ぶ動きには、絵コンテへ「猫のように」と書き込んでいる。剣の速さだけでなく、判断と視線が先に動くことで戦士としての強さを描いた。
幼少期の回想には、前後の絵を同じ画面へ残す残像と、背景の下から光を当てる透過光が重ねられた。透過光は、描いた背景の裏側から光を通して明るく見せる撮影技法である。輪郭が時間の中へ溶ける映像を、作画だけでなく撮影工程でも作っていた。
腐海深部の湖と砂地には、完成させた背景画をいったん水で洗う「洗い描き」が使われた。絵の具をわずかににじませ、紙の表面を毛羽立たせることで、輪郭を描き足すのではなく崩したのである。毒の森の下にある静かで清浄な空間は、この質感の変化から生まれた。
本作では、完成版に使われなかったものまで含めて約1500枚の背景画が描かれた。風の谷の乾いた石造建築、湿った腐海、白い腐海深部、機械都市ペジテ、軍用艦内では、必要な色も空気も異なる。採用された絵だけでなく、試行の末に外れた絵まで含む数字が、美術設計の広さを物語る。
久石譲との仕事は、イメージアルバムから本編音楽へ進んだ。イメージアルバムとは、本編完成前に物語や絵から作品世界を音で示すためのアルバムで、久石はその成果を経て劇伴を作っている。宮崎駿と高畑勲も音楽へ細かく関わり、打ち合わせが一度に約10時間へ及ぶこともあった。
久石譲は、ナウシカの感情を音楽で直接なぞる方法を避けた。曲を置いたのは、彼女が見て感じる腐海、蟲、風景といった対象で、その存在を音で浮かび上がらせている。人物の感情ではなく、人物が見つめるものへ音を付けたため、観客もナウシカと同じ対象へ耳を向ける構造になった。
「王蟲との交流」で聞こえる「ラン、ランララ」の歌声は、当時4歳だった久石譲の娘・麻衣である。久石が曲のイメージを示すため、家庭用ラジカセで娘の仮歌を録ったところ、作り込みすぎていない声が場面に合った。本来は少年歌手も考えられていたが、その仮歌が完成版へ残った。
宮崎駿は、クリミア半島の干潟シヴァーシュが「腐った海」と呼ばれることを本で知り、そこから「腐海」の名を借りた。毒を出しながら世界を浄化する森の構想を先に描き、後から実在地の不穏な呼び名を重ねたという。森の働きと名前は、最初から一緒に生まれたわけではなかった。
ナウシカが立ったまま操るメーヴェは、重量わずか12キロという設定である。小型ジェットエンジンを1基積むが、推力へ頼り続ける飛行機ではなく、離陸と加速以外は風を読んで滑空する。機体の性能だけでなく、操縦者の体重移動と土地の風を読む技術まで含めた乗り物だ。
風の谷のガンシップは全長8メートル、翼幅18メートルで、左右に3基ずつエンジンを持つ。機首の透明なキャノピーには、軽くて強い王蟲の眼殻が使われている。人間は腐海の蟲を脅威として焼こうとしながら、鎧や剣、飛行機の材料にはその身体を利用しており、その依存関係が機体にも組み込まれている。
1980年代に英語圏へ渡った版は、『Nausicaä』ではなく『Warriors of the Wind』という題の大幅短縮版として流通した。20分以上が削られ、人物名や台詞も変えられ、パッケージには本編にいない屈強な戦士まで描かれた。環境と共生をめぐる本作が、短い戦闘冒険物のように再編集されていたのである。
脚本家アーロン・スチュワート=アンが少年時代に繰り返し借りたのは、完全版ではなく大幅に再編集された『Warriors of the Wind』のVHSだった。本編と合わないパッケージを持つ版だが、周囲の子どもが『スター・ウォーズ』(1977)へ夢中になる中、彼はナウシカを見続け、アニメーションから物語作りを学んだと語っている。
大幅短縮版『Warriors of the Wind』の流通後、徳間書店とスタジオジブリ側は海外権利を整理し直し、完全版を正式な題名で展開できる状態を作った。作品を短く切り、売りやすい冒険物へ変えられた経験は、その後の海外配給で無断の編集を認めない姿勢にもつながっていく。改変版は、後の配給方針を考える現実的な材料にもなった。
王蟲の鳴き声の一部には、布袋寅泰が演奏したギター音が使われたという。布袋本人が後年、自分は王蟲の鳴き声のためにギターを弾いたと明かしている。ただし、録音日、音を加工した担当者、完成版のどの声に使われたかまでは資料がそろっていない。
安田成美のイメージソング「風の谷のナウシカ」(1984)は、映画と同じ題名を持ち、公開時の宣伝でも大きく扱われた。ところが完成した本編の劇中やエンディングには流れず、久石譲の劇伴とも別の曲である。テレビ放送やレコードで曲を知った観客ほど、映画の最後に聞いたように記憶しやすい一曲だ。
スタジオジブリ公式史によれば、1984年の初公開時に本作を劇場で見た国内観客は91万5000人だった。現在の知名度は、再上映、テレビ放送、映像ソフトを重ねた結果でもあり、最初から巨大興行だったわけではない。それでも内容面と興行面での成功が、翌1985年に新しい制作拠点を作る判断を支えた。
原作漫画は、宮崎駿が『天空の城ラピュタ』(1986)など別の映画を作るたびに連載が中断された。映画版公開後も約10年にわたって物語が続き、1994年の完結まで開始から12年を要している。映画と漫画が、同じ作者の制作時間を交互に使いながら育った作品だった。
八谷和彦はメーヴェに着想を得て、人が乗って飛ぶOpenSkyプロジェクトを始めた。一人乗りの無尾翼グライダーから、ジェットエンジンを積むM-02Jへ開発を進めている。映画の12キロという設定をそのまま再現せず、航空法と安全条件の中で、立ち姿に近い操縦感覚を持つ飛行機へ翻訳した試みだ。
2020年、新作供給が止まり映画館が苦境に立つ中、スタジオジブリは本作を含む4作品の全国再上映に協力した。初公開から36年後に映画館を支える上映作品として戻ったのである。テレビ放送の定番になった作品を、大画面と音響で見直す機会が受容史へ新たに加わった。
庵野秀明が『ナウシカ2』を作るという話は、実現間近の企画のように語られることがある。押井守と鈴木敏夫の公開トークでも庵野へ任せる案が冗談交じりに出たが、宮崎駿の正式な許可、脚本、制作発表はそろっていない。作り手同士が長年話題にしてきた可能性はあっても、映画企画として動き出したとまでは言えないようだ。
ナウシカの衣装は場面によって肌に近い色に見えるため、素肌のままメーヴェで飛んでいるという見間違いが小ネタになっている。実際にはタイツ状の衣装を着ており、色味と画面の明るさが輪郭を紛らわしくしたものだ。ソフトを持っている捜査員は、飛行場面で脚の色と衣装の境目を一時停止して確かめてほしい。