主な参考資料
- Turner Classic Movies
- AFI
1961年公開。日本題『荒野のガンマン』、原題『The Deadly Companions』で、サム・ペキンパーの劇場用長編監督デビュー作である。テレビ西部劇『ライフルマン』などで経験を積んでいたペキンパーは、主演ブライアン・キースの劇場映画企画に監督として参加したが、プロデューサーのチャールズ・B・フィッツシモンズが強い編集権を握る「雇われ監督」に近い立場だった。低予算の現場はペキンパーにとって学習の場となった一方、完成版には本人の意向が十分に残らず、当時の批評は作品よりも「次を見たい監督」として彼を評価した。後年のペキンパー像から逆算して暴力の美学を読み込みすぎると、デビュー作が抱えていたのはまず、作家性より先に編集権を奪われるというハリウッドの洗礼だったことを見落とす。
ブライアン・キースはテレビ西部劇『The Westerner』(1960)で主演し、サム・ペキンパーが製作や演出を担当する現場を知っていた。番組終了後に本作の主演へ決まると、プロデューサーのチャールズ・B・フィッツシモンズへペキンパーを監督として推薦した。映画会社の育成枠ではなく、テレビで一緒に働いた俳優の信用が、35歳のペキンパーに初めて長編映画を任せる理由になった。
本作はモーリン・オハラを主演に据え、彼女の兄チャールズ・B・フィッツシモンズがプロデューサーを務めた。さらに弟ジム・オハラも、冒頭の町に登場するカル役で出演している。ペキンパーが自由に脚本を作る監督作品として始まったのではなく、まずオハラを中心に成立した家族主導の独立製作であり、この出発点が後の演出方針をめぐる衝突にもつながった。
A・S・フライシュマンは、まず本作のための映画脚本を書いた。製作準備が進む間に同じ物語を小説『Yellowleg』(1960)へ展開し、映画が完成した時にはその小説が原作としてクレジットされた。人気小説の映画化から脚本が生まれたのではなく、映画用に考えた物語が先に出版物へなり、結果として映画の「原作」になった珍しい順序である。
本作の撮影期間について、サム・ペキンパー本人は19日間、TCMの制作記録は21日間としている。二日の差はあるものの、約3週間で全編をロケ撮影したという点は一致する。1961年1月17日にアリゾナ州ツーソンで主要撮影を始め、悪天候の中で砂漠、町、廃墟、旅の場面を撮り切った。初めての長編で時間をかけて演出を探る余裕はほとんどなかった。
サム・ペキンパーは渡された脚本に不満があり、自分で改稿しようとした。しかしプロデューサーのチャールズ・B・フィッツシモンズは、彼を脚本家ではなく監督として雇ったとして変更を認めなかった。撮影後もペキンパーは最終編集を管理できず、ポストプロダクションで製作側と衝突した。本人は一度改変された後に自分の初期編集版へ戻されたと回想する一方、後年の資料には彼を外して再編集したとする記録もあり、公開版の成立過程には食い違いが残る。
本作は当初、白黒で撮る予定だった。1960年12月、配給・製作側はPathé Colorのカラー作品へ変更し、それに伴って計画予算を150万ドルへ引き上げた。しかし1962年の業界記録では、実際には39万ドルで完成したと報じられている。TCMには50万ドル、IMDb候補には30万ドルという別の数字もあるが、同時代資料を追うと「150万ドル規模で計画され、40万ドル前後で作られた」という開きが見える。
共同出資したMotion Picture Investorsは、劇場主が映画会社の株を持ち、製作や配給の方針へ発言できるようにする目的で1958年に作られた投資組織だった。それまで映画製作には参加していなかったが、本作へ15万ドルを出資した。作品が予算内で完成したため、そのうち6万ドルは返済されたと報じられている。上映する側が製作費を出す実験の最初の一本だった。
本作の主要撮影は1961年1月17日、アリゾナ州ツーソンで始まった。砂漠や荒野を使う全編ロケを終えた後、完成作の世界初公開も同年6月6日にツーソンで実施された。翌7日にはロサンゼルスで『Operation Eichmann』(1961)との二本立て公開が予定されている。ロケ地を宣伝上の最初の観客へ結びつけた公開計画だった。
約40万ドルで完成したと報じられた独立製作に対し、配給側は大規模な公開を計画した。1961年6~7月の集中上映へ向けて400本のプリントを発注し、公開時には劇場主から871件の上映予定を確保していた。作品の規模を少数館で育てるのではなく、同じ時期に多数の映画館へ送り込んで宣伝効果を作る飽和公開だった。
配給側は400本のプリントと871件の上映予定を用意したが、初公開は興行的に失敗した。1963年1月、マーキュリー・フィルムズは題名を『Trigger Happy』へ変え、銃撃を前面に出した作品として再公開している。共同出資したMotion Picture Investorsの純資産は、本作の失敗後に33万7870ドルから4万5971ドルへ減少したと業界紙に報じられた。
1961年秋、ロサンゼルスの広告会社Advertising Engineers Corp.は、配給会社Pathé-Alphaと親会社などを提訴した。同社は本作の宣伝とマーケティングを担当し、興行収入の5%を受け取る契約だったのに報酬が支払われなかったと主張し、120万ドルの損害賠償を求めた。約40万ドルで完成したと報じられた映画に対し、公開後の請求額はその数倍に達した。
音楽を担当したマーリン・スカイルズは、ギタリストのラウリンド・アルメイダとボブ・ベインを起用した。二本のギターはデュオとして前面に出るだけでなく、より大きな合奏の中にも組み込まれている。西部劇らしい土地の音を一つの旋律だけで示すのではなく、ギターを独奏、掛け合い、オーケストラの一部へ切り替えて使う音楽設計だった。
1961年2月、撮影が進んでいた時期の業界紙は、歌手ペペ・カラハンの出演とともに、友人のフリオ・カローナが本作の音楽へ契約したと報じた。ところが完成版のクレジットで音楽を担当しているのはマーリン・スカイルズで、指揮はラウル・クラウシャーとなっている。撮影中の発表から完成までに作曲家が交代したことは確認できるが、変更理由は残る資料から分からない。
ブライアン・キースが演じる元北軍兵は、物語の最後まで本名を明かされない。「イエローレッグ」という呼び名は、南北戦争時代の北軍騎兵がズボンに付けた黄色い側章から来ている。衣装の色が人物の軍歴を示し、そのまま通称と小説『Yellowleg』(1960)の題名になった。過去の所属だけが名前として残る人物設計である。
主演のモーリン・オハラは、回想録『'Tis Herself』(2004)でサム・ペキンパーとの仕事を厳しく振り返った。重要なインディアン襲撃場面を撮り逃したこと、動物の扱いに配慮を欠き、馬に蛇を踏ませる場面を撮ったことを具体例として挙げている。ペキンパー側には脚本や編集を制限されたという不満があったが、主演女優の証言からは、監督自身の準備や現場運営にも問題があったことが分かる。
サム・ペキンパーの監督料は1万5000ドル、主演のブライアン・キースは3万ドルだったという記録がある。本作の完成費は同時代資料で39万ドルと報じられているため、数字が正しければ主演俳優には新人監督の二倍が支払われたことになる。ただし、現在確認できる資料はIMDb候補に限られ、契約書、給与台帳、当時の業界紙による裏付けはない。
本作の中心には、母親が亡くなった息子の棺を運び、父親の墓の隣へ埋葬しようとする旅がある。この暗い題材を変えなかったため、製作側は出資者を見つけにくかったという話が残る。Pathé-Alphaと劇場主の投資組織Motion Picture Investorsが共同出資した事実は確認できるが、棺を運ぶ物語が資金難の直接原因だったと示す当時の記事には到達できていない。
A・S・フライシュマンが映画脚本を小説『Yellowleg』(1960)へ展開した後、4か月で50万部を売り、製作開始を後押ししたという話がある。脚本が先で小説が後という順序は複数資料で確認できるが、50万部という数字と4か月という期間は、出版社の販売記録や著者本人のインタビューで確認できていない。
荷馬車の下へ潜ったイエローレッグが、上から落ちる砂を浴びながら拳銃を拾う場面は、アリゾナ州カタリナで撮影したという記録がある。本作がツーソン周辺で主要撮影を行ったことは同時代資料で確認できるものの、カタリナという町名とこの一場面を結ぶ撮影日誌、新聞記事、ロケーション台帳には到達できていない。