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2011年公開で、『ゲド戦記』から5年を置いた宮崎吾朗の長編監督第2作であり、宮﨑駿が企画と脚本を担った父子協業作である。吾朗は一作目の後にジブリ美術館へ戻り、鈴木敏夫から次回作を求められることを避けていたが、父が長く温めていた少女漫画の映画化を託されて再び監督席へ座った。舞台となる1963年の風景について父から細かな助言を受ける一方、吾朗は過去をセピア色に美化するだけの懐古映画にはしない方針を取った。制作が半ばまで進んだ時点で東日本大震災が起き、計画停電がデジタル工程を遅らせたが、内容を変更せず当初の公開日を守った。日本映画製作者連盟の集計では国内興行収入44.6億円で、2011年の邦画首位となった。親子の共同制作に震災と停電まで加わり、穏やかな画面の裏では十分すぎるほど風が荒れていたのである。
原作漫画の発表時期に近い1980年前後ではなく、映画は東京五輪前年の1963年を舞台に選んだ。宮崎駿は、五輪によって東京が大きく塗り替えられる直前の時代を描こうとした。新しい建物や道路が増える一方、戦争で家族を失った記憶はまだ生活のすぐ隣に残っている。カルチェラタンの保存運動と海や俊の出生をめぐる物語が並行するのは、古いものを捨てて前へ進むべきかという問いを、国と個人の両方へ重ねるためである。
参考情報:公式資料(日)
宮崎駿と丹羽圭子が脚本を書き、宮崎吾朗が全編の絵コンテと監督を担当した。刊行された完成台本と実際の映画には違いがあり、吾朗は父が組み立てた物語をそのまま清書したのではない。人物の動かし方や空間のつながりを絵コンテ段階で検討し直し、ときには脚本の指示へ異議も唱えた。父子の共同作業は役割分担の明確な制作体制であり、その衝突まで含めて画面が作られている。
参考情報:公式資料(日)
91分の本編は約1年6か月をかけ、1,147カット、69,758枚の絵で作られた。大規模な戦闘や幻想世界ではなく、学生が廊下を行き交い、部室の品物が積み重なる青春映画でこの枚数に達している。とくにカルチェラタンでは、人物の動きと無数の小道具を同時に整理しなければならない。雑然とした建物を一つの共同体として動かすための数字である。
参考情報:公式資料(日)
宮崎吾朗の二作目は、自分が温めていた企画を自由に映画化する形では始まらなかった。『ゲド戦記』後に別企画を考えていたが実現せず、鈴木敏夫から本作を監督しなければ辞めてもらう趣旨を告げられたという。そこで渡されたのが宮崎駿と丹羽圭子の脚本だった。父の名と前作への評価を背負いながら、他人の企画を自分の映画へ変える再登板である。
参考情報:公開資料(日)
宮崎吾朗は制作中、眠っている間に強く歯を食いしばり、奥歯が割れたと振り返っている。『ゲド戦記』に続く二作目であり、宮崎駿が用意した脚本を自分の演出で完成させる仕事でもあった。父子の意見がぶつかる制作現場で、監督の負荷は精神論では済まない身体症状にまで達した。軽やかな青春映画の裏側にあった緊張を示す証言である。
参考情報:公開資料(日)
初期の海は、父を失った影を強く抱えた暗く内向的な人物として描かれていた。宮崎駿が橋を大股で渡る海のイメージボードを示すと、宮崎吾朗は主人公像を修正した。人物の説明を台詞で増やすのではなく、歩幅と姿勢から性格を作り直したのである。旗を揚げ、家事をこなし、カルチェラタンの保存へ踏み出す海の行動力は、この一枚を起点にまとまった。
参考情報:公式資料(日)
冒頭で海が布団を畳む動作は、宮崎駿が主人公の勤勉さを一目で示すため脚本へ入れた。宮崎吾朗は、海の部屋と押し入れの位置を考えると動線が不自然だと反対した。生活を描くことでは一致していても、人物の印象を優先する父と、建物の空間を守ろうとする息子では判断が違ったのである。最終的には鈴木敏夫の「プロデューサー命令」で動作が残された。
参考情報:資料・アーカイブ(日)
現在の横浜を写すことを禁じた。宮崎駿は、現在残る場所や時代資料をそのままコピーせず、その時代に存在したかもしれない風景を想像するよう求めた。坂の上の家、港、学校、商店街は実在の地理を手掛かりにしながら、海と俊が歩いて結び付けられる映画の都市として再構成された。公式監修地図も、劇中の地理と現実の横浜を重ねる形で作られている。
参考情報:公式資料(日)
1963年らしさは、背景を一律に古びさせるだけでは作れない。制作陣は当時の家電、書籍、照明器具、看板、衣服まで調べ、人物が触れる生活用品として画面へ置いた。原画展では、完成版で使われなかった海のブレザー案まで展示された。コクリコ荘の台所や商店街、カルチェラタンの雑多な部室は、調査した物の集積によって年代を説明している。
参考情報:公開資料(日)
原画展には、完成版で使われなかった海のブレザー姿や、宮崎駿と宮崎吾朗が別々に描いた主人公像が並んだ。未採用の衣装は単なる没デザインではなく、海をどの程度現代的に見せ、どんな性格として立たせるかを探った痕跡である。父が描いた力強い歩き方と、息子が目指した現実的な少女像の間で検討が続き、完成したセーラー服の海へ絞り込まれた。
参考情報:公式資料(日)
2011年3月11日の東日本大震災で制作は一時停止した。宮崎吾朗は安全と混乱を考えて三日間の休止を提案したが、宮崎駿は非常時だからこそ制作地点を放棄すべきでないと反対した。議論の末、無理に全員を集めるのではなく、出勤できるスタッフが作業を続ける形で再開した。映画の完成は、単なる納期優先ではなく、危機のなかで仕事を続ける意味をめぐる判断の結果だった。
参考情報:公式資料(日)
震災後の計画停電は、制作スケジュールだけでなく一日の働き方まで変えた。パソコンを使う仕上げや編集の工程は、電力を確保しやすい夜間へ移されたという。紙に鉛筆で描く工程が中心に見える作品でも、彩色、撮影、編集を完了するにはデジタル設備が欠かせない。夏公開を維持するため、制作陣は工程の順序だけでなく、機材を動かす時間帯まで組み替えた。
参考情報:資料・アーカイブ(日)
NHKの取材班は約10か月にわたり制作現場へ入り、宮崎駿と宮崎吾朗の議論、絵コンテと作画の進行、震災後の判断を記録した。完成後に整えられた成功談だけでなく、主人公像が定まらず、父子の判断がぶつかる瞬間まで映像として残っている。映画一本のメイキングであると同時に、監督と脚本家、父と息子という二重の関係を追った記録になった。
参考情報:公式資料(日)
長澤まさみは当初、海を明るく快活な少女として演じた。宮崎吾朗はそれを愛想がよすぎて本心を隠しているように聞こえると感じ、他人へ簡単に心を開かない自然な話し方を求めた。海は家事をてきぱきこなすが、感情まで外向的な人物ではない。働き者の表面と父の死を抱えた内面を同じ調子にせず、声の温度と間で主人公の二面を作った。
参考情報:公開資料(日)
長澤まさみと岡田准一は、海と俊の主要な掛け合いを一緒に収録した。相手の台詞を後から想像する別録りではなく、その場で声を受け、返事までの間や息を合わせている。収録後、岡田が一つの台詞だけ録り直したという。恋愛を大げさな告白の連続にせず、普段の会話から距離が変わっていく二人には、同じ場で生まれる反応が使われた。
参考情報:公開資料(日)
宮崎吾朗は1963年を、看板や衣装だけで再現しようとはしなかった。現代の若者らしい沈黙やためらいを長く置かず、台詞を素早く受け渡すよう演出したという。当時は男女の交際が今ほど気軽ではなく、海と俊が口にする「好き」も結婚の意思に近い重さを持つ。会話の速度と一語の重さを組み合わせ、時代の感覚を声で作っている。
参考情報:公開資料(日)
海が毎朝掲げる二枚の旗は、国際信号旗のU旗とW旗として描かれている。この組み合わせには航海の安全を祈る意味があり、亡き父を待つ個人的な習慣が、港を行く船にも読める正式な合図になる。俊の父が乗るタグボートが返旗することで、その日課は一方通行ではなくなり、港で働く誰かに受け止められていたことが分かる。
参考情報:映画データベース(米)
冒頭で海が掲げるU旗とW旗は、その場だけの小道具では終わらない。タグボート側の表示や、幸子が描く港の絵にも同じ組み合わせが現れるとされる。海が父へ向けて続けてきた習慣が俊の生活へ届き、さらに友人の絵へ写し取られることで、二枚の旗が登場人物をつなぐ視覚的な反復になる。
参考情報:映画データベース(米)
フランス語の「海」と「ひなげし」が名前に重なる。フランス語のmerは海、coquelicotはひなげしを意味し、学生寮のカルチェラタンもパリの地名に由来する。人物、坂の上の下宿、保存運動の舞台へ同じ言語圏の語彙を散らし、異なる場所を一つの命名感覚でまとめている。
参考情報:映画データベース(米)
「上を向いて歩こう」が同時代の歌として流れる。1961年に発売された歌であり、1963年を生きる海や俊にとっては身近な流行歌だった。戦争の記憶を抱える家族と、新しい東京五輪へ向かう社会の間で、若者が前を向く時間を同時代の音楽が支えている。画面の看板だけでなく、街から聞こえる歌も年代設定の一部である。
参考情報:公式資料(日)
横浜は舞台の参考になっただけでなく、スタジオジブリ作品として初めて都市と組んだ大規模な連携相手になった。公式監修の地図は、劇中の地理と現実の横浜を重ねながら、映画の場所を一つの実在地点へ断定しない形で作られている。制作側が1963年に「あり得た」景観を創作したため、モデル地紹介も現実とフィクションの対応を示す設計になった。
参考情報:公式資料(日)
作品は2011年7月16日に公開され、観客動員約355万人、興行収入44億6,000万円を記録した。スタジオジブリの公式史では、2011年公開の邦画で興行1位とされている。震災による一時停止と計画停電を越えて夏の公開日を守った映画が、その年に最も大きな興行収入を上げた邦画となった。制作上の苦境と公開後の成績を切り分けて確認できる数字である。
参考情報:公式資料(日)
「海、陸、空という兄弟の名前が三つの領域をそろえる命名になっている」という話がある。ただし、現時点で当事者資料や制作記録まで裏付けはそろっていない。海・陸・空を表す兄弟名をめぐる確かな制作資料が見つかるまで、結論は保留にする。
参考情報:映画データベース(米)
「海の父の死を、朝鮮戦争期に日本の船舶と船員が担った海上輸送の危険と結び付ける見方がある」という話がある。ただし、現時点で当事者資料や制作記録まで裏付けはそろっていない。海の父と朝鮮戦争期の海上輸送を説明する制作側の確認が取れるまで、可能性の段階に留めたい。
参考情報:映画データベース(米)
「港の船体に「GHIBLI」と読める表記が入っているという画面内小ネタ」という話がある。ただし、現時点で当事者資料や制作記録まで裏付けはそろっていない。船に隠れた「GHIBLI」の文字についての裏付けがそろうまでは、情報不足・要確認として扱う。
参考情報:映画データベース(米)