2001年公開、鳴海章の同名小説を森らいみが脚色し、小泉今日子と浅野忠信を主演に、東京から東北を経て冬の北海道へ向かうロケを重ねた相米慎二の監督第13作であり、結果として遺作になった。小泉と浅野が初めて顔を合わせた撮影は、透ける衣装で接客する場面を延々と1シーン1カットで撮るというもので、親睦より先に相米式の長回しへ放り込まれた。浅野の回想では、通常の段取りを先に固めず、俳優に自由に動かせてからスタッフが撮り方を考え、相米は具体的なヒントを与えず「まだ面白くなる」と時間をかけたという。さらに急きょ椎名桔平が出演する空港の場面では、浅野自身が前日に役と台詞を書くよう命じられ、その案が採用された。初公開時の正確な単独興行収入は確認できず、映画製作者連盟の2001年興行収入上位表にも掲載されていないが、同年のベルリン国際映画祭フォーラム部門で上映され、9月に相米が死去したため本作が最後の一本となった。映画会社が欲しがる効率だけは、最後まで相米の現場に到着しなかったらしい。
浅野忠信は相米慎二の厳しい現場の噂を聞き、出演をためらっていた。だが共演者が幼い頃から憧れていた小泉今日子だと知り、引き受けることを決めた。監督に挑む覚悟より先に、憧れの俳優と同じ画面に立ちたいという気持ちが旅の相棒を成立させた。
参考情報:公開資料(日)
浅野忠信は食事の席で、脚本を読めていないと相米慎二から厳しく指摘された。それまで台詞を覚えて現場へ行くことが多かったが、以後は脚本全体を読み、人物の行動を自分で考えるようになったという。『風花』の経験は、一役の演技だけでなく俳優としての準備方法を変えた。
参考情報:公開資料(日)
相米慎二は俳優へ細かな動線を先に与えず、まず自由に動かせた。その行動を成立させるカメラ位置や照明を、スタッフが後から組み立てる。俳優の自由を撮影側が支えるため、予定外の動き一つで現場全体の設計が変わる方法だった。
参考情報:公開資料(日)
相米慎二は小泉今日子を美しく撮ることを強く意識する一方、予測不能に動く浅野忠信を撮影計画を崩す「敵」と冗談交じりに呼んだ。浅野の動きを抑えるのではなく、その不安定さを残したため、二人の距離は整いすぎない。監督にとって扱いにくい要素が、廉司という人物の危うさになった。
参考情報:公開資料(日)
椎名桔平の参加が急に決まると、相米慎二は浅野忠信へ空港場面を書くよう求めた。浅野は一晩で場面を組み立て、その内容が本編へ採用された。主演俳優の仕事が即興の台詞にとどまらず、新しい共演者を物語へ入れる脚本作業にまで及んだ例である。
参考情報:資料・アーカイブ(日)
撮影初日は風俗店の場面で、小泉今日子は初対面の浅野忠信を前に透ける衣裳を着て、ワンシーン・ワンカットを何度も繰り返した。撮影監督の町田博は、彼女の手が震えていたことを覚えている。主演二人の関係をゆっくり作る前に、羞恥と緊張が最大になる場面から撮影が始まった。
参考情報:公開資料(日)
桜の木の下から始まる冒頭は、小泉今日子がリハーサルと異なる動きをした最初のテイクが使われている。クレーンが枝へ触れて画面も揺れ、その後に技術的には整ったテイクも撮られた。それでも相米慎二は、撮り直しでは戻らなかった小泉の表情を優先した。
参考情報:公開資料
相米慎二は酔った状態の自然さを求め、小泉今日子に実際の酒を飲ませて撮影した。ふらつきや反応の遅れを演技で整えるのではなく、俳優の身体状態そのものを場面へ持ち込む方法である。現在なら安全管理や同意の説明も欠かせない、相米現場の強引さを示す証言でもある。
参考情報:公開資料
白い雪景色で小泉今日子を際立たせるため、衣裳デザイナーの小川久美子は鮮烈な赤のムートンコートを選んだ。相米慎二から「音のするもの」を求められると、市販のブレスレットへ鈴も加えた。ゆり子は雪の中で色として見つかり、身体が動けば音でも存在を知らせる。
参考情報:公開資料
相米慎二はテイク後、部門や年齢を問わずスタッフへ感想を尋ねた。若手の照明スタッフが「面白くない」と答えれば、監督はその意見を受けて撮り直したという。作品の判断を監督席だけに閉じず、現場の誰もが一つのテイクへ責任を持たされる仕組みだった。
参考情報:公開資料(日)
『風花』は2000年に製作され、2001年1月に公開された相米慎二最後の完成長編である。4K修復では、撮影時にチーフ助監督だった高橋正弥が監修を担当した。雪原で小泉今日子を際立たせる赤いコートの発色も、現場を知るスタッフの記憶を手掛かりに調整された。
参考情報:公式資料(日)