主な参考資料
- Los Angeles Times
- AFI
1972年公開。本作はエルモア・レナードが土地闘争を題材に書いた脚本を、ジョン・スタージェス監督とクリント・イーストウッド主演で映画化した西部劇であり、日本題は初期のワーキングタイトル *Sinola* を残している。レナードは後年、スタージェスの求めに応じて脚本を書き戻した一方、メキシコ系指導者チャマの人物像や場面構成は監督側で変更され、完成作を自作の脚本とは距離のあるものと評した。撮影はカリフォルニア州ビショップ、ローン・パイン周辺とアリゾナ州オールド・ツーソンで行われ、鉄道を建物へ突入させる終盤は、スタージェスが現地の狭軌線を見つけた後に追加された。AFIの記録では、本作は美術ヘンリー・バムステッド、編集フェリス・ウェブスター、助監督ジェームズ・ファーゴらがマルパソ作品へ長期参加する起点にもなった。興行データには公開市場や再上映を含む範囲の差があり、The Numbersの北米集計だけでは世界成績を断定できないため、本文では具体額を採用しなかった。脚本家が土地の所有をめぐる物語を書き、監督がその脚本の所有権まで握ったような作品である。
原作ものではなく、エルモア・レナードがイーストウッド用に書いたオリジナル脚本。レナードはクリント・イーストウッド主演を前提に、映画用のオリジナル脚本として物語を書いた。後年の取材でも、プロデューサーからイーストウッドのための脚本を依頼された仕事だったと説明している。
脚本会議の前、プロデューサーはレナードの台詞へ鉛筆で削除線を引いていた。レナードはその場で争わず、イーストウッドが来る前に消しゴムで線を消し、自分の台詞をすべて元へ戻した。本人によれば、イーストウッドは復元された台詞を読んで変更を求めなかった。
本作の土地争いは、ニューメキシコ州の土地権利運動家レイエス・ティヘリーナと、1967年のティエラ・アマリヤ郡庁舎襲撃から着想された。レナードは初期脚本を『The Sinola Courthouse Raid』と呼び、実在事件を架空のシノラ郡へ移して西部劇に組み替えた。
レナードの初稿でルイス・チャマは、土地を奪われた人々を本気で救う英雄ではなく、自分の名声を優先する危うい指導者だった。スタージェスはチャマをより善玉らしい人物へ変更した。レナードは後年、この変更でジョー・キッドがどちら側へ立つかという物語の力学が崩れたと振り返っている。
レナードによれば、スタージェスは自作『荒野の七人』(1960)で使わなかった演出案を本作へ持ち込んだ。植木鉢を撃ち落として男の首へかぶせる場面も、その未使用案の一つだった。レナードは、こうした追加が単純だった脚本を複雑にしたと考えていた。
【ネタバレあり】終盤でジョーがフランク・ハーランと向き合う場面を、レナードとスタージェスは銃を抜かずに進めるつもりだった。ところがイーストウッドは「本当に銃を持たないのか」と確認し、完成版ではジョーが銃を手にしている。レナードはこの小さな変更を、主演俳優と脚本の力関係が現れた例として回想した。
レナードは完成した本作を気に入っていなかったが、その不満をイーストウッドへ向けてはいない。本人はイーストウッドを台詞や脚本をほとんど変えない、仕事のしやすい俳優と評した。一方で、スタージェスの改変が物語を複雑にしたと繰り返し説明している。
【ネタバレあり】列車が建物へ突入するラストは、撮影開始後に追加された。撮影開始後、スタージェスはOld Tucsonの線路が酒場の直前で終わる地形に気づき、その場所を使うラストを考えた。レナードも後年、列車の結末は監督が思いついたものだったと説明している。
レナードが語った初期脚本の題は『The Sinola Courthouse Raid』だった。AFIの製作記録では、その後のワーキングタイトルは『Sinola』になっている。最終的には架空の郡名ではなく、イーストウッドが演じる主人公の名を前面に出した『Joe Kidd』で公開された。
本作の町場と山岳風景は、一つの地域だけで撮られていない。西部劇の町はアリゾナ州Old Tucsonを使い、屋外撮影はビショップ、ローンパイン、インヨー国有林周辺でも行われた。完成版の謝辞にも米国森林局インヨー国有林の協力が記されている。
本作は、イーストウッドの制作会社Malpasoにとってスタッフ面でも転機になった。助監督ジェームズ・ファーゴ、編集フェリス・ウェブスター、美術ヘンリー・バムステッドは、ここから同社との長い協働を始めた。3人はその後、監督・編集・美術の異なる立場でイーストウッド作品を繰り返し支えることになる。
2020年に米国で発売されたKino Lorber版Blu-rayには、ラムーア役ドン・ストラウドの新録インタビューが収められた。ストラウドは『クーガンズ・ブラフ』(1968)での共演から本作へ起用された経緯に加え、スタージェスとイーストウッドの緊張した関係、自身の独特な死亡場面を振り返っている。特典は約10分で、撮影から約半世紀後の当事者証言である。
撮影中にイーストウッドが体調を崩したことを、「馬アレルギーだった」と説明する説がある。ところが後年の伝記的記述では、気管支感染症と不安発作を馬への反応と誤って報じたものだと訂正されている。今回確認できた制作記録には診断名がなく、馬アレルギー説も、後年の訂正内容も医療記録で確定できない。馬を原因とする説を支えるだけの裏付けは得られていない。
IMDbには、スタージェスが本作の現場で頻繁に酔い、助監督が代わって撮影したという逸話がある。ドン・ストラウドの後年インタビューが監督と主演の緊張へ触れることは確認できたが、飲酒の頻度、撮影代行をした人物、該当日を示す本人証言や制作日報は見つからなかった。現時点では、関係の緊張から一段飛躍した未裏付けの説である。
「本作はイーストウッドとジョン・ウェインを共演させる企画で、ウェインが断ったため人物が削除された」という説がある。しかしAFIの企画記録とレナードの脚本回想には、ウェインの役名、オファー、削除された人物が記されていない。二大スターの共演が別の時期にも検討されたことと、本作の具体的な制作過程を結びつける証拠は未確認である。
IMDbには、ジョー役の候補としてチャールズ・ブロンソン、スティーヴ・マックィーン、ロバート・ミッチャムが挙がり、ハーラン役はジーン・ハックマンが断ったという説がある。だがAFIの制作記録、レナード本人取材、確認できた当時資料にはオファーや交渉の記録がなかった。候補者の長い名簿は、現段階ではIMDb投稿以上に裏づけられない。