イノセンスを配信で見られるサービスを、確認できた範囲で掲載しています。未確認のサービスは公式サイトで探せます。
2004年公開。『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の続編としてProduction I.Gが制作し、スタジオジブリの鈴木敏夫がプロデュースに加わった大型企画である。作業は2001年春ごろに始まり、手描きの人物と3DCG、デジタル撮影を組み合わせるために複数の制作班が動き、美術と音響にも通常のアニメ映画を越える物量が注ぎ込まれた。Production I.Gの石川光久は後年、製作費は俗にいわれる20億円に近かったと認める一方、現在も十分には回収できておらず、それが次作を作れない理由だと率直に語っている。完成作は日本のアニメーション映画として初めてカンヌ国際映画祭コンペティション部門へ進んだが、芸術的な勲章と帳簿上の無罪判決は、どうやら別の審査だったようである。
制作費は、石川光久の回想で約20億円規模まで膨らんだ。プロダクションI.G一社で抱えるには大きく、石川が鈴木敏夫へ協力を求め、スタジオジブリが制作協力に入った。精密な人形、都市、祭礼、デジタル合成の密度は、作画上の挑戦だけでなく会社の存続リスクを伴う規模だった。画面の豪華さの裏側は、スタジオ間の連携まで含めた産業上の賭けである。
巨大な人形と群衆が街を進む祭礼は、上映時間では約5分にすぎない。しかし押井守の説明では、その完成におよそ1年を費やした。事件の説明を急ぐ代わりに、人間と人形、信仰と商品が入り混じる世界を、光、煙、反射、動く装飾の積み重ねで体験させたのである。物語が止まったように見える場面ほど制作時間が凝縮され、バトーの孤独を都市の祝祭が飲み込んでいく。
人形の参考取材は企画初期だけで終わらなかった。公開前年の2003年7月、押井守ら13人が四谷シモンの球体関節人形と野坂オートマタ美術館を再訪し、色彩、撮影、エフェクトの資料を集めた。関節の形を写すだけでなく、肌の艶、古い機械の金属、光が表面へ残る仕方まで現物へ戻って確かめたのである。ガイノイドの硬さと生々しさが同居するのは、終盤まで実物観察を更新した結果である。
キムの館で響くオルゴールは、機械音へデジタル残響を足しただけではない。80弁ディスク式の「オルフェウス」を実際に録り、その音を大谷の地下採石場で5.1ch再生し、石壁の反響ごと録音し直した。架空の巨大空間を、現実の地下空間へ一度通して作ったのである。音の尾を聞くと、館の広さが画面外まで続くように感じるのは、CGでは描けない実在の空気が混ざっているからだと分かる。
バトーの車の認証や、キムの館で繰り返される番号には「2501」が現れる。前作で人形使いに与えられ、素子との合図にもなった数字が、今度は罠の中にいるバトーへ届く警告になるのである。姿を見せない素子は、説明台詞ではなく、数字と人形の配置を少しずつ変えて介入する。ループ場面を見直すと、同じ光景の中で2501だけが外部から差し込まれた救命索だと分かる。
オープニングで組み上がる義体は、工場のロボットだけを参考にした形ではない。脚や胴体を組み替えたハンス・ベルメールの球体関節人形を思わせる構図が入り、劇中にも関連書籍が置かれる。美しい女性型の身体が、最初から分解と再配置を前提にした物体として示されるのである。義体製造を見直すと、未来技術の映像であると同時に、古い人形芸術の不穏さを機械へ移した場面に見えてくる。
食料品店で、フード姿の人物がバトーとすれ違う瞬間、「キルゾーンに入った」と警告する声が聞こえる。映像特典には草薙素子役の田中敦子がその台詞を録る様子が収められ、姿を失った素子が声だけで危険を知らせたと分かる。何気ない通行人と短い音声が、キムの侵入より先にバトーを守ろうとする介入だったのである。再見すると、店内の現実が崩れる前から素子は近くにいる。
ガイノイド企業「ロクス・ソルス」は、レーモン・ルーセルの小説『Locus Solus』と同じ名を持つ。劇中のキムの館も、人や物が奇妙な展示として反復し、眺める者を閉じ込める装置になっている。単に外国語で企業名を飾ったのではなく、人工物が生きた場面を演じる文学世界を、電脳の罠へ置き換えたのである。館の各部屋を「物語を再生する展示」として見ると、ループの意味が変わる。
ガイノイドを調べ、人間が人形へ感情を投影する仕組みを語る法医学者の名は「ハラウェイ」。サイボーグを通じて身体や性の境界を論じた研究者ダナ・ハラウェイを連想させる命名である。思想家の文章をそのまま説明する人物ではないが、鑑識室の会話を現実の議論へつなぐ小さな入口になる。名前を知ると、解剖台の人形が犯罪証拠だけでなく、人間の定義を問う対象に見えてくる。
食料品店や祭礼のデジタル処理は、完成した作画へ光を飾るだけの工程ではない。江面久らは、3D空間、手描き人物、煙、反射を最初から一つの画面として組み、押井守もエフェクトが入る前提で構図を設計した。だからCGの店内にセルの人物が立っても、素材の違いより同じ光の中にいる感覚が先に来る。反射や空気の層を追うと、デジタル班が背景と人物の間を接着していることが分かる。
ガイノイドが所有者を殺し、自壊する事件の骨格は、士郎正宗の原作エピソード「ROBOT RONDO」へ遡る。映画はそこへバトーの孤独、人形論、古典文学、巨大な祭礼を重ね、捜査ものを人間と模造物の境界を問う長編へ広げた。原作と見比べると、事件の仕組みを借りながら、何を削り何を増やして押井守の映画へ変えたかが見える。 再見時には、その痕跡を画面と音の細部でも確かめられる。
超高層都市と電脳が発達した2032年なのに、道路を走る車には1940年代の流線型を思わせる丸い車体が多い。未来を新製品だけで埋めず、古い機械、人形、民俗、電子技術を同じ街へ積み重ねたのである。バトーの車も便利な移動手段であると同時に、過去へ執着する彼の身体感覚を残す。車列を見直すと、この未来が一直線に進歩した世界ではなく、異なる時代の残骸でできていると分かる。
バトーの部屋にいるバセットハウンドは、無機質な世界へ置かれた可愛い飾りではない。押井守が同犬種を飼い、愛犬をガブリエルと呼んでいた私生活が重ねられている。言葉を交わせない犬へ食事を用意し、帰宅を待つ時間が、義体化したバトーに残る世話と孤独を示す。犬型オルゴールまで含めて見直すと、監督自身の生活感が、最も静かな人物描写へ姿を変えている。
2004年、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門へ正式選出された。アニメ専門部門ではなく、パルム・ドールを競う本選で各国の実写映画と同じ列に並んだ。引用と人形論を詰め込んだ日本のSFアニメが、海外向けに単純化されず国際映画祭へ持ち込まれた点に意味がある。祭礼や沈黙の長さまで含む作家性が、商品ジャンルではなく一本の映画として審査され、これは見返したくなる。
登場人物たちは、自分の心情を素直な言葉で説明する代わりに、ミルトンや仏典など過去の文章を借りて会話する。膨大な情報へ接続できる電脳社会で、個人の声さえ引用の集合になっているのである。バトーの喪失も直接告白されず、他人の言葉の隙間からだけ見える。引用元を調べて見直すと、難解な装飾ではなく、人間の記憶と人格がどこまで借り物なのかを音声で示す演出だと分かる。
劇中の倫理コード3は、アシモフのロボット三原則を直接引いたものだという説がある。考え方は近いが、制作者が出典として明言した資料は見つかっていない。似ていることと、直接引用であることは別の話。
工場船の制御音声はすべて広東語だという説がある。中国語らしい響きは手がかりになるが、話者照合や台本の確認までは届いていない。耳で拾える仕掛けほど、断定は慎重にしたい。
バトーの銃はFNミニミだと特定するファンもいる。外見は有力な手がかりだが、設定資料や銃器監修の記録で確定したわけではない。兵器の型番は、見た目だけで決めると沼が深い。
香港取材や中国語の看板から、劇中都市は前作と同じ香港だとされることがある。公式紹介はあくまで架空都市としており、取材地と物語の所在地は同じではない。街の混ざり方が、この誤解を誘う。