『インセプション』夢から覚めるピアフの曲は、外されかけていた
『インセプション』で夢から覚める合図に使われる、エディット・ピアフの「水に流して」。この曲は、ピアフを演じた女優が出演することになったため、変更を検討されました。 音楽を担当したハンス・ジマーは曲を残すよう強く主張し、最初の選曲が生き残ったのです。[1][2]
登場人物たちは、夢から脱出するための衝撃を「キック」と呼びます。ピアフの歌は、そのタイミングを知らせる合図。観客の気分を盛り上げるだけの挿入歌ではなく、夢の中で動いている仲間へ届く音として、作戦の一部になっています。[3]
・曲は、コティヤールの出演より先に決まっていた
ノーランは、2010年の公開に合わせたインタビューで、ピアフの曲は10年前から脚本に入っていたと説明しています。選びたかったのは、冒頭に特徴があり、劇中の合図として使える曲でした。[2]
ところが、コブの妻モルを演じることになったのは、マリオン・コティヤール。コティヤールは『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』(2007)でピアフを演じ、2008年のアカデミー賞主演女優賞を受賞していました。ピアフの歌と、その歌手を演じたばかりの女優が、同じ映画にそろったのです。[4][5]
これでは、コティヤールに合わせて曲を選んだと思われるかもしれません。ノーランも、取材のたびにその質問を受けるだろうと考え、曲の変更を検討したと語っています。ただし、出演と選曲の重なり自体は、ノーランによれば偶然でした。ピアフ役への目配せを狙って、後から歌を入れたわけではありません。[2]
・ジマーは、女優と役を切り離して考えた
ジマーの回想では、ノーランがコティヤールのピアフ役を見たあと、曲を外すべきかを話し合う場が持たれました。気になったのは、歌が登場人物ではなく、演じている女優を連想させてしまうこと。ジマーは、残すために強く争ったと振り返っています。[1]
そこで選んだのは、自分たちの映画を作っているのだから、コティヤールはこの映画の登場人物として扱おう、という考え方でした。別の映画で誰を演じたかより、『インセプション』の中で何が必要かを優先したのです。[1]
ノーランが脚本を書きながら思い描いていた音と、配役から生まれた思わぬ連想。完成した映画では自然に同居している二つが、制作中には曲を替えるかどうかの相談につながっていました。
この曲をピアフ自身が歌う姿は、INAの公式アーカイブで見ることができます。[6]
曲そのものを聴くための参考映像。ピアフが「水に流して」を歌う、1960年12月2日のテレビ番組のアーカイブです。映画で使用された音源や、ジマーの加工前のマスターと同一だという意味ではありません。出典:INA Chansons公式。映像・音楽の権利は各権利者に帰属します。
・残した曲は、夢の時間に合わせて作り変えられた
歌をそのまま流すだけなら、既存の録音を映画に置けば済みます。しかし『インセプション』には、夢の階層によって時間の進み方が違うという仕掛けがあります。歌の扱いも、その時間の違いに合わせる必要がありました。[7]
ノーランがBAFTAで説明した工程では、ジマーとチームが元の録音から音の要素を取り出し、時間を引き伸ばしました。異なる時間の尺度に合わせて曲を違う形で聞かせ、さらに楽器で録り直していったのです。ただ再生速度を落とすだけでなく、取り出した音を演奏へ作り直す工程もあったということです。[7]
夢の中の仲間に聞こえる歌と、観客が聞く劇伴。その間をピアフの曲がつないでいます。華やかな歌唱映像から映画へ戻ってみると、同じ曲が、歌声だけでなく時間の伸び縮みを感じさせる材料としても使われていることが分かります。
・未来の夢世界に、昔の歌声を置く
ジマーは、本作を深い愛の物語として考え、未来的な映画に郷愁があることを面白がっていたと語っています。その対照は、映画に現れるピアフの歌の断片から始まっていました。[1]
街が折れ曲がり、夢が幾重にも重なる世界に、昔の歌声が入ってくる。作戦の合図でありながら、冷たい電子音だけではない響きも持っている。ピアフの曲を残した選択は、夢の仕組みを説明する音と、ジマーが求めた懐かしさを、同じ映画の中に置くことになりました。
・脚注
- abcdPopMatters:We Built Our Own World: Hans Zimmer and the Music of ‘Inception’(Evan Sawdey、2010年7月15日)。ジマー本人へのインタビュー。曲の変更をめぐる話し合い、残す主張、愛の物語と郷愁について。
- abcIndieLondon:Inception — Christopher Nolan interview(Rob Carnevale取材、2010年公開時)。ノーラン本人の、選曲の時期、特徴的な冒頭、配役との偶然、変更の検討についての説明。
- Jacqueline Waeber:What’s in a song: the case of Christopher Nolan’s Inception(SoundEffects、vol.3、no.1+2、2013年、本文p.48/PDFの5ページ目)。映画内で曲が夢を離れる合図として使われることを説明する研究論文。選曲の制作意図を立証する資料としては使用しない。
- テレビ東京 CINEMA STREET:エディット・ピアフ 愛の讃歌。2007年作品、コティヤールの出演、日本語作品名と楽曲名を確認。ワーナー・ブラザース:インセプションでモル役を照合。
- Academy of Motion Picture Arts and Sciences:The 80th Academy Awards 2008。2008年2月24日の授賞式と、コティヤールの『La Vie en Rose』による主演女優賞受賞。
- INA Chansons:Edith Piaf “Non, je ne regrette rien” — Archive INA(2020年11月10日投稿)。説明欄で、1960年12月2日の番組『Cinq colonnes à la une』の歌唱映像と確認。本文の動画キャプションに出典リンクを表示。
- abBAFTA:A Life in Pictures — Christopher Nolan(2017年12月1日講演記録、PDFの12ページ目)。元の録音の要素を分け、時間を引き伸ばし、楽器で録り直した工程について。