主な参考資料
- AFI
- Los Angeles Times
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1998年公開。グレゴリー・ホブリット監督は、脚本家ニコラス・カザンと別企画を進めていた際に本作の脚本を渡され、警察ドラマと悪魔憑き映画を接続する発想に惹かれて監督を引き受けた。カザンは悪を怪物の姿で見せず、誰にでも入り込み得る見えない存在として描く方針を選び、ホブリットもテレビの刑事ドラマで培った現実感をそこへ持ち込んだ。製作費は約4,600万ドル、世界興収は約2,520万ドルにとどまり、公開時は批評・興行ともに厳しい結果となった。悪魔は最後まで姿を見せなかったが、興行成績の不吉さだけはかなり明瞭だったようだ。
最初に生まれたのは「悪が人から人へ移る」場面。脚本家ニコラス・カザンが最初に思いついたのは、悪魔の説明や処刑場面ではなく、街角で悪が人から人へ渡っていく光景だったとされる。誰かの意地悪が次の人へ伝染するように、悪意を接触の連鎖として映像化した発想が、映画全体のルールへ育ったのである。
悪魔を直接見せない方針が恐怖を作った。『悪魔を憐れむ歌』は、アザゼルを一体の怪物として見せない。触れた人間の声、動き、歌が次の人物へ移るため、画面にいる誰もが突然敵になり得る。姿を決めないこと自体が特殊効果となり、刑事映画の群衆を怪物より怖い存在へ変えている。
罵り言葉を教える話者が見つからなかった。処刑囚リースのアラム語を準備するため、イライアス・コティーズはオハイオでシリア語系アラム語の話者に会った。ところが相手は宗教上の理由から、台詞に含まれる罵り言葉を口にできなかった。制作側は発音を教えられる別の協力者を探し、悪魔の言葉を再現するために現実の信仰上の境界へぶつかった。
リースの動きが憑依された全員の基準になった。アザゼルには固定した顔がないため、観客が同じ存在だと分かる別の印が必要だった。監督グレゴリー・ホブリットはイライアス・コティーズの身体表現を基準にし、後から憑依される俳優にも似た癖を引き継がせたという。複数の身体で一役を演じる設計が、悪魔の連続性を支えている。
街頭の憑依には振付家とダンサーを使った。街頭でアザゼルが次々と人へ移る場面は、偶然の雑踏を撮ったものではない。振付家ラッセル・クラークが接触、視線、歩く速度を組み、主にダンサーが通行人を演じたという。何気ない人波が一つの意思で動いて見えるのは、怪物ではなく群衆を振り付けたからである。
悪魔の視点は写真用フィルムを毎秒6コマで撮った。色が尾を引くアザゼルの主観映像は、通常の映画用ネガを後から加工しただけではない。写真用のエクタクロームを毎秒6コマで撮り、24コマへ引き伸ばし、特殊レンズも組み合わせたとされる。人間とは違う視覚を、フィルム一コマの露光から作ったのである。
本編の黒をENR現像で締めた。通常場面の重い黒には、ENRと呼ばれる現像処理が使われたとされる。色相を奇抜に変えるのではなく、影を深くし、明るい部分を強めてコントラストを出す方法である。アザゼルの主観だけを異世界にせず、日常の刑事世界そのものを暗くすることで、悪がすでに街へ染み込んだように見せている。
初日の山小屋ロケは豪雨でトラックが立ち往生。撮影初日はホッブズが森の山小屋へ着く場面から始まる予定だった。ところが豪雨の中、早朝に送り出した機材車が暗い道で外れ、動けなくなったという。映画で孤立を生む場所が、現場でも機材を寄せつけない地形になった。詳しい制作日報は未回収だが、ロケの危うさが具体的に伝わる逸話である。
失われた音声を新聞広告で探した。ホッブズが少年サムへ父の死を伝える重要場面は、現像所へ運ぶ途中で音声素材が紛失したとされる。制作側は新聞広告やラジオまで使って探したという。デジタル複製をすぐ送れない時代には、一つの静かな会話がタクシーと列車の移動だけで失われる危険があった。
試写の退屈な沈黙から梁の落下が加わった。山小屋の地下室で梁が突然落ちる場面は、脚本にも初期編集にもなかったとされる。試写中、その静かな探索場面で観客が席を立ったことを見た制作側が、緊張を戻すために追加した。観客が動いた瞬間へ映画が反応した例であり、驚かせ方が物語上の必然だけで決まらないことが分かる。
回転扉の襲撃場面は悪魔のルールを守るため削除。予告編には、憑依された人物がグレッタを回転扉の先まで追う場面があるが、本編にはない。音声解説では、刃物を持って直接追わせるとアザゼルが普通の殺人鬼に見え、映画のルールを壊すため削ったとされる。見せ場より悪魔の性質を守った編集である。
グレッタは二人分の役を引き受けた。初期脚本では、グレッタのほかにアザゼルを詳しく知る老女モードが登場し、森の山小屋も彼女の家だった。完成版はその知識と場所をグレッタへ集約した。人物を一人減らしたことで、説明を聞く刑事と、家族の過去を背負う女性の関係が直接つながる構造になった。
デンゼルは刑事に同乗し、血で靴を替える現実を知った。デンゼル・ワシントンは刑事役の準備で地元捜査員の巡回に同乗し、殺人現場で靴に血が付くことへ備えて、車に替えの靴を積む者がいると知ったとされる。銃や尋問より地味な実務だが、刑事が死を日常の仕事として処理する感覚を伝える細部である。
会社合併の境目でテレビ初放送先がねじれた。本作はターナー・ピクチャーズで企画され、会社再編でワーナーへ引き継がれた。しかし有料テレビ権は先にスターズへ売られていたため、同じタイム・ワーナー系列のHBOではなくスターズでテレビ初放送されたとされる。一本の映画に、企業買収前後の契約がそのまま残った例である。
アザゼルとスケープゴートの意味が題材へ直結。アザゼルという名は、『レビ記』の贖罪日に共同体の罪を負わせて荒野へ送る山羊の文脈と結び付く。英語の「スケープゴート」の由来としても知られる。罪や悪が別の身体へ移される映画の仕組みを知ると、この名前が単なる悪魔らしい響きではないことが分かる。