主な参考資料
- The Guardian
- Los Angeles Times
- AFI
- Vanity Fair
狼よさらばを配信で見られるサービスを、確認できた範囲で掲載しています。未確認のサービスは公式サイトで探せます。
1974年公開の本作は、ブライアン・ガーフィールドの同名小説を映画化した『狼よさらば』シリーズ第1作であり、当初はシドニー・ルメット監督、ジャック・レモン主演で進んでいたが、ルメットが『セルピコ』(1973)を選んだことで企画が組み直された。脚本を抱えながら製作へ進めずにいたマイケル・ウィナーは、『シンジケート』(1973)の撮影後にチャールズ・ブロンソンへ持ちかけ、その関心を足掛かりにディノ・デ・ラウレンティスから製作を取り付けたと本人が語っている。撮影は1974年1月18日から4月初旬までニューヨーク、ツーソン、ホノルルで行われ、音楽には『Head Hunters』(1973)を聴いたウィナーがハービー・ハンコックを起用し、都市犯罪劇へ電子楽器とファンクの不穏さを持ち込んだ。ところが原作者ガーフィールドは、主人公が自警行為によって病んでいくという警告を映画が取り違えたと抗議し、批評家も暴力を私刑で解決する作品だと激しく非難した。製作費は1974年当時で370万ドル、劇場配給収入は2,030万ドルとする業界資料があり、現在の興行集計では北米興収2,200万ドル――酷評の一方で観客は上映中の制裁に喝采し、パラマウントが入場料を引き上げるほどのヒットとなった。映画は普通の男が壊れる警告から、強面スターが街を掃除する興行商品へ傾き、ハリウッドは原作者の異議をよそに続編を4本も作ったのである。
『ストーン・キラー』(1973)の撮影を終え、Kennedy空港へ向かう車の中で、Charles BronsonがMichael Winnerに「次は何をやろうか」と尋ねた。Winnerが手元にあった『Death Wish』の脚本を示したことが、本作へ進む直接のきっかけになったという。監督本人が後年の取材で語った企画の出発点である。
Paul Kersey役はClint Eastwoodにも打診された。Eastwoodは、傷を抱えた戦士としての自分のスクリーンイメージがすでに固まりすぎており、穏やかな建築家が暴力へ転じる役には合わないとして辞退した。代わりに、教授のような雰囲気を持つGregory Peckを提案したという。
Brian Garfieldの原作で主人公はPaul Benjaminという会計士だが、映画ではPaul Kerseyという建築家へ変わった。撮影時の取材でBronsonはKerseyを「平均的なNew Yorker」と説明しており、完成作はスターの強さを残しつつ、職業と名前を映画用に組み替えている。原作と映画で同じなのは、単なる復讐劇ではなく一般市民が暴力へ変わる過程を描く骨格である。
初期の仮題は『Sidewalk Vigilante』、直訳すれば「歩道の自警団員」だった。AFI Catalogが参照した映画芸術科学アカデミー図書館の同時代資料に残っている。最終題『Death Wish』よりも、主人公の行動を直接説明する題名だった。
撮影は1974年1月18日から4月初旬にかけて行われた。荒れたNew Yorkだけで完結させず、Kersey夫妻の休暇場面をHonolulu、開発計画と射撃場の場面をTucsonで撮っている。三つの土地の空気を対比させるロケーション設計だった。
Jeff Goldblumにとって本作は、初めて受けた映画オーディションだった。約50人の荒々しい風貌の候補が集まる中、台本の一場面を他の俳優と即興で演じて役を得たという。撮影初日のカメラリハーサルでは、階段を上る演技に対してWinnerから大声で「今から演技を始めろ」と指示されたと本人が振り返っている。
警察署の一場面に出るOlympia Dukakisは、New YorkのPublic Theaterにある大部屋で一日だけ撮影したと振り返っている。オーディションではWinnerに身体の向きを変えるよう求められ、「肉の一片のように扱われた」と感じたとも証言した。本人の経験として記録すべき、現場の権力関係を示す回想である。
音楽をHerbie Hancockへ依頼するきっかけになったのは、1973年のアルバム『Head Hunters』だった。Winnerの当時の恋人がそのレコードを聴いてHancockを推薦し、1974年春に監督本人から電話が入った。Hancockにとっては『欲望』(1966)、『The Spook Who Sat by the Door』(1973)に続く3本目の映画音楽だった。
劇伴の録音では、HancockがHead Huntersのメンバーとスタジオ奏者を混成した。ギターのMelvin “Wah Wah Watson” Raginらが参加し、一部のオーケストラ部分はJerry Petersが編曲・指揮している。完成したサウンドトラック盤は1974年10月11日にColumbiaから発売された。
公開時の反応は、批評と客席で真っ二つに割れた。VarietyやNew York Timesは自警行為を煽る作品だと厳しく批判した一方、Los Angeles Timesは、試写でBronsonが犯罪者を撃つたび観客が足を踏み鳴らし喝采したと報じている。論争そのものが、映画の社会的な衝撃を可視化した。
原作者Brian Garfieldは、映画が自作のメッセージを歪めたと公に批判した。本人の説明では、物語の核心は主人公が自警行為によって精神的に壊れていくことにあり、暴力的な英雄を称えることではなかった。原作と映画の決定的な違いは、事件の筋よりも主人公の見せ方にある。
劇場公開の論争はテレビ放送にも持ち越された。Garfieldは1976年のCBS放送に反対し、PittsburghとSan Franciscoの系列局が放送を取りやめた際には、その判断を公に支持した。作品の内容をめぐって原作者が再上映・放送へ異議を唱える、異例の対立だった。
【ネタバレあり】New Yorkを追われChicagoへ着いたKerseyは、女性を困らせた若者たちへ指を銃の形にして向ける。AFIはこの最後の身振りを、当時53歳だったBronsonのタフガイ像を象徴する映画的瞬間として記録している。処罰から逃れただけでなく、彼が自警行為を終えていないことまで一動作で示す結末である。
The Numbersが掲載する北米興収は2,200万ドルである。AFIも本作を「非常に大きな成功」と位置づけ、その結果Bronsonが長年にわたり興行上位のスターへ押し上げられたと記録している。製作費には別資料で370万ドルという記録があるが、その費用範囲と海外興収が揃わないため、最終的な収益率までは断定できない。
英国での版の変遷は、BBFCの記録で追うことができる。1974年の劇場版は93分40秒だったが、2000年の物理媒体版はカットを受け89分7秒になった。2006年には93分20秒の無修正版が物理媒体・配信用として認定され、削られた版からほぼ全長版へ戻った。
当初はSidney Lumet監督、Jack Lemmon主演だった。MoMAによれば、当初はSidney Lumet監督、Jack Lemmon主演の計画だった。しかしLumetが『セルピコ』(1973)を選んだため実現せず、監督と主演を含む企画の体制が組み直された。
Los Angeles Timesが1987年に掲載した業績表では、『狼よさらば』の製作費は370万ドル、劇場配給収入は2,030万ドルとされている。劇場配給収入は映画館の取り分を除いた配給側の収入で、The Numbersが集計する北米興収2,200万ドルとは別の指標である。宣伝費などを含む最終損益までは、この数字だけでは確定できない。
Denzel Washingtonが路地の強盗役で無記名出演したという説は誤りである。2016年に本人が「1974年にはまだ俳優ですらなかった」と明確に否定し、その説がIMDbへ加えられていたことにも触れた。顔立ちが似た俳優を見つけたことから生まれた誤認だった。
Paul Kerseyという名は、撮影に参加したエキストラの実名で、多くの群衆場面へ出すことと引き換えに使わせてもらったという説がある。しかし本人の記録、出演契約、脚本家や監督の証言は確認できず、AFIの詳細クレジットにも同名人物を特定できなかった。面白い由来話だが、現時点では未確認である。
Paul Kersey役は当初Steve McQueenを想定し、本人が断ったという説も流通している。しかしMcQueen本人や代理人、製作者の証言、同時代の正式な打診記録には到達できなかった。Clint Eastwoodへの打診は別資料で確認できるが、それをMcQueen説の根拠に置き換えることはできない。
Bronsonがシリーズ5作で総額1,300万ドルを受け取ったという説がある。後年の取材から、続編出演に高額報酬が大きく関係したこと自体はうかがえるが、各作の契約書や利益参加を含む支払記録は確認できない。端数まで示された総額を、確定した契約額として使うことはできない。