主な参考資料
- American Cinematographer
- Lucasfilm
- BFI
- The Academy
1981年公開。企画初期にはジョン・スタージェス監督、ロバート・レッドフォード主演の英語作品として検討されたが停滞し、バヴァリア・フィルムのギュンター・ロールバッハがウォルフガング・ペーターゼンを起用してドイツ映画として立て直した。当時のドイツ映画として最大級かつ技術的にも最も複雑な製作となり、撮影監督ヨスト・ヴァカーノは狭い潜水艦セットを走り抜けるため、ジャイロを組み込んだ小型手持ちカメラを開発した。世界市場を狙う大作でありながら、映像はハリウッド的な美しさではなく、戦場記者が艦内へ閉じ込められたようなドキュメンタリー調に設計された。完成作はアカデミー賞6部門にノミネートされ、ペーターゼンのハリウッド進出を開いた。世界向けに撮れと命じられた現場が、結局はハリウッドらしく撮らないことで世界へ届いたのである。
企画は1976年ごろ、ジョン・スタージェス、のちにドン・シーゲルが監督し、ロバート・レッドフォードが艦長を演じる米国参加作として進んでいた。すでに潜水艦の建造も発注されていたが、複数の米国人脚本家と原作者ロタール=ギュンター・ブーフハイムの意見が衝突して頓挫した。1979年、バヴァリア・フィルムが純ドイツ製作として企画を救い上げ、ヴォルフガング・ペーターゼンが脚本と監督を担った。
純ドイツ製作への再編では、一本の劇場映画だけで費用を回収するのではなく、同じ撮影素材から五部構成のテレビシリーズも作る方式が採られた。劇場版は高価な行動場面を優先し、テレビ版は人物関係、待機、日常の会話を広げる。後に複数の長さの版が生まれたのは、ヒット後の水増しではなく、企画段階から映画とテレビを並行させた設計に由来する。
製作費は約2500万ドイツマルクに達し、約250人が何か月も雇用され、撮影されたフィルムは約25万メートルに及んだ。撮影監督ヨスト・ヴァカーノは、当時のドイツで最も高価なだけでなく、技術的にも最も複雑な映画だったと記している。巨額予算はスターや海外ロケのためではなく、狭い艇内を再現する建築、複数縮尺の模型、独自撮影機材へ投入された。
再始動した企画には、商業映画の安全策がほとんどなかった。恋愛要素も幸福な結末もなく、出演者の多くは無名で、38歳のヴォルフガング・ペーターゼンはそれまで劇場映画を一本しか監督していなかった。それでも製作責任者ギュンター・ロールバッハは、技術的にこの企画を任せられる唯一の監督だと判断し、当時最大級の予算を託した。
ヴォルフガング・ペーターゼンは、ロタール=ギュンター・ブーフハイムの長大な原作を映画とテレビの両方へ展開できる脚本へ組み直すため、三か月にわたって集中的に執筆した。米国参加版が脚本をめぐる対立で崩れた後だけに、監督就任は撮影現場を率いるだけの仕事ではなかった。物語の速度、人物の日常、戦闘の配分を一つの撮影計画へまとめ直す役割まで負っていた。
撮影監督ヨスト・ヴァカーノは、乗組員を半ば子どものような若者、宣伝に惑わされ、技術に魅了された志願兵として捉えたと説明している。そのため艦長役のユルゲン・プロホノフを除き、主要乗組員には無名俳優や演技経験の少ない人が多く起用された。誰か一人を英雄として目立たせるより、狭い艇内で同じ疲労を共有する集団に見せることが優先された。
ロタール=ギュンター・ブーフハイムは1941年、従軍記者として実際のU-96に乗り込み、航海を文章と写真で記録した。映画は半自伝的小説だけでなく、その時に残された写真も参照し、艇内の装備、乗組員の服装、長い待機で崩れていく身なりを再現した。物語の語り手が若い従軍記者なのも、原作者が艦内を観察した立場を反映している。
技術顧問ハンス=ヨアヒム・クルークのチームは、U-96の航海を1941年秋の史実と突き合わせ、進路、攻撃・回避時の速度、コンパス、機関指示器、回転計、深度計の数値を整えた。さらに月齢、太陽角度、季節の嵐まで照合している。劇場版の編集では一部が見えにくくなったが、背景の計器や号令には、場面ごとの航海状況が組み込まれていた。
潜水艦の機関音を作るため、技術顧問と音響班は、戦時型に近いMAN製ディーゼルが現役で動いている川船を探し出した。その実機音を録音し、艇内の金属的な響きや振動の土台にしている。撮影現場は油圧装置とカメラが騒がしく同時録音に向かなかったため、後処理で音を組み立てる際にも、この実録素材が機械の存在感を支えた。
深度爆撃で機関兵ヨハンが持ち場を離れる場面では、艦長が自室へ拳銃を取りに行き、服従を迫る案が俳優側から出た。元潜水艦乗りの技術顧問ハンス=ヨアヒム・クルークは、全員が志願兵で密接に結び付いた小型艦では不釣り合いな反応だと反対した。協議の結果、艦長が身体で制止する、より抑えた演出が選ばれた。
美術監督ロルフ・ツェートバウアーは、VII C型Uボートの艇内を等身大で再現した。セットには撮影用に外せる壁を設けられたが、製作陣はそれを使わず、カメラも俳優と同じ狭い通路と丸い隔壁を通る方針を採った。広い場所から望遠で覗くのではなく、撮影者自身が人と機械の間をすり抜けることで、画面の閉塞感が物理的に生まれた。
等身大の艇内セットは、バヴァリア・スタジオの油圧架台に載せられた。潜航や荒天の場面では、床、俳優、配管、小道具がまとめて傾き、乗組員は実際に体勢を崩しながら動く。カメラだけを傾けて船の揺れを装う方法ではなく、空間そのものを動かし、その動きに逆らう人間の身体を撮影する仕組みだった。
乗組員が隔壁を次々に抜ける場面では、大型のステディカムを使えなかった。ヨスト・ヴァカーノは小型のアリフレックスへ二個のジャイロを交差配置し、水平を保ちながら手持ちで走れる装置を作った。通称ヨスティカムで映画の約90%を撮影し、激しく移動しても観客が艇内の水平感覚を失わない映像を実現した。
ヨスティカムが隔壁を抜けても、通常の位置にフォーカス担当者が立てる余地はなかった。そこでレンズの周囲へ操作輪を取り付け、滑車とボーデンケーブルで後方や床に近い位置からピントを送る遠隔装置を作った。現在なら電子式で処理できる仕事を、機械式の伝達系で成立させ、撮影者一人分の幅しかない通路でも人物を追えるようにした。
艇内セットを揺らす油圧架台と、手持ちカメラを安定させるジャイロ装置は大きな騒音を出した。そのため現場音を完成音として使うことはできず、俳優は撮影後に台詞を録り直した。機関、警報、圧力で軋む金属、遠くの爆発も別々に収録・編集され、撮影時には存在しなかった静けさと轟音の落差が音響段階で作られた。
照明班は実際のVII C型Uボートの照明図を調べ、艇内に置かれていた器具の位置と役割を基本にした。撮影のため電球の出力は高めたが、接写などを除いて別の映画用照明を足していない。顔が暗部へ沈み、機械の陰から急に現れる画面は、雰囲気づくりの色彩ではなく、限られた電力で運用する潜水艦の配灯を再現した結果である。
赤と青には役割があった。赤は総員配置と夜間の艦橋勤務に使われ、暗所へ出た時に目が順応しやすい。青は停電時や居住区の夜間灯として用いられた。色が変わる瞬間は、物語上の感情だけでなく、潜水艦がどの運用状態へ移ったかも示している。
電気系統が落ちる場面では、見えない撮影灯で顔を補う方法を避けた。美術・照明班は70ワットの石英電球と交換式ニッカド電池を組み込んだ特製懐中電灯を作り、その光だけで人物を追った。強い光の円錐が煙や濁った空気に浮かぶため、視界の悪さと空気の重さを同じ道具で表現できた。
ヨスト・ヴァカーノは、華美な戦争大作ではなく記録映像に近い色とコントラストを求め、富士フイルム8517/8518を選んだ。荒天の艦橋をスタジオで再現する際は、背景の前面投影へ光量を割きながら俳優も写す必要があり、ASA250の8518が一段分の余裕を与えた。青緑に沈む画面は、後年の色調整だけでなく撮影時のネガ選択から作られている。
美術監督ロルフ・ツェートバウアーのチームは、艇内の等身大セットと全長約73メートルの外装に加え、用途別の模型を製作した。海上走行と荒天用は約12メートルの6分の1模型、水中撮影用は約6メートルの12分の1模型、港や船団攻撃などの特殊効果には約3メートルの小型模型を使った。距離と水の見え方に合わせて縮尺を変え、一隻の連続した潜水艦に見せている。
海上走行用の約12メートル模型は、穏やかな水槽で波を足すのではなく、北海のヘルゴラント沖へ運ばれた。最大約4.6メートルの実波の中を遠隔操作し、縮尺模型の動きを重く見せるため毎秒50~100コマで撮影した。模型は30秒ほど波下へ沈んでも姿勢を戻したが、撮影班は現像結果が届くまで、カメラの振動や浸水がないか確認できなかった。
ヘルゴラント沖の模型は、フィルム交換のたびに港へ戻し、クレーンで水から上げなければならなかった。既製の35ミリ水中カメラには、毎秒50~100コマの撮影と1000フィートマガジンを両立する機種がなかったため、撮影班はアリフレックス用のアダプターと小型筐体を新造した。二台を模型の側面へ固定し、無線で操作して前面投影用の映像を得た。
荒天の模型を海面に近い高さから撮るため、ヨスト・ヴァカーノと助手ペーター・マイヴァルトは潜水服と救命胴衣を着け、撮影場所の床へ身体を固定した。二人は波の合間に息を継ぎながら、約200ミリの望遠レンズで模型を画面内へ保った。安全な岸から長焦点で眺めた映像ではなく、撮影者自身が水をかぶる位置から得た揺れと飛沫である。
全長約73メートルの外装は自走した。見える上部構造を金属フレームと浮体で支え、三基合計800馬力のエンジンを搭載して自走できるようにした。出港、帰還、穏やかな海で俳優が甲板に立つ場面を、固定された背景ではなく動く巨大構造物として撮影した。
全長約73メートルの外装模型は、ラ・ロシェル沖で無人だった夜の嵐に遭い、船体が破損して沈没した。170日を超える長期撮影の途中で、製作を完遂できるか危ぶまれる事故だった。外洋で俳優を乗せる予定だった場面の一部は、既設の艦橋セット、前面投影、水槽と放水装置を組み合わせるスタジオ撮影へ変更された。
模型沈没後の荒天場面では、俳優が立つ艦橋をスタジオへ置き、ヘルゴラント沖で撮った海と船首・船尾を約21メートルのスクリーンへ前面投影した。現場からは背景の波が見えないため、投影機と連動する大型時計を設置し、天井の水路、ポンプ、消防ホースの放水を秒単位で同期した。背景の波が画面手前まで続いて見えるのは、合成後の処理ではなく現場の時間合わせによる。
深度爆撃の衝撃を表現するため、油圧架台は通常の傾斜だけでなく、支持柱の上で実際に跳ねるよう作動させられた。力は艇内セットの溶接部が割れるほど強く、騒音も同時録音できない水準だった。さらにカメラをゴム支持の三脚へ載せ、セットとは異なる周期で震わせることで、船体全体と観察者の身体が別々に揺さぶられる画面を作った。
ジブラルタル沖で着底し、傾いた艇内へ海水が流れ込む場面では、等身大セットを大型水槽へ移した。水位を少しずつ上げ、配管や隔壁の隙間から大量の水を噴き出させ、俳優と撮影班は数週間にわたって首まで水に浸かった。アリフレックスは薄いプラスチックで包む程度しか守れず、カメラも何度も水を浴びながら撮影を続けた。
帰港直後に港が空襲される場面では、ラ・ロシェルの実物大外装を沈める大規模な特殊撮影が行われた。六つの撮影班を配置し、使用した爆薬は二トンを超えた。爆発、水柱、俳優、外装の損壊を別々に作って後で組み合わせるのではなく、港全体で同時進行する出来事として複数方向から記録した。
主要撮影は1980年7月から1981年6月まで続き、撮影日は170日を超えた。実物大外装と防空壕はフランスのラ・ロシェル、荒海の模型はヘルゴラント沖、別の海上素材はボーデン湖、艇内と水槽はミュンヘンのバヴァリア・スタジオで撮影された。一隻の航海に見える映像は、約一年にわたる複数地域の工程を接続している。
荒天の艦橋撮影で、ピルグリム役のヤン・フェダーが放水に足を取られ、艦橋から流される事故が起きた。ベルント・タウバーが救助へ動いた一連の映像は、演技ではなく実際の緊急反応を含んでいる。フェダーの負傷後は、人物が寝台で療養する場面を増やす形で役の動きが調整され、撮影中断を物語内の出来事へ吸収した。
ラ・ロシェルの旧ドイツ軍潜水艦基地には、『U・ボート』用の実物大外装が置かれていた。1980年6月に『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』(1981)が同地で撮影を始めた際、その外装はルーカスフィルムへ短期貸与され、聖櫃を運ぶ潜水艦として使われた。盗用や偶然の使い回しではなく、正式な貸与による二作品の制作上の接点である。
主要版は、1981年劇場版149分、1985年に三回放送されたテレビ版308分、1997年ディレクターズ・カット208分である。劇場版は高価な行動場面を優先し、テレビ版は待機、会話、乗組員の背景を大幅に残した。ディレクターズ・カットは人物描写を戻しつつ、一本の劇場映画として速度を整えた中間形で、同じ素材から緊張の持続時間が異なる三作品が作られた。
原作者ロタール=ギュンター・ブーフハイムは、艇内セットや港の再現が技術的に正確であることは認めていた。それでも完成版には強く反発し、自身の反戦小説が、浅い米国型の行動映画と戦時中の宣伝ニュース映像を混ぜたような作品へ変わったと批判した。ペーターゼンも後年、原作者が映画を嫌っていたと明言しており、成功作の陰には原作の倫理と映画の興奮をめぐる対立が残った。
第55回アカデミー賞では、ヴォルフガング・ペーターゼンの監督と脚色、ヨスト・ヴァカーノの撮影、ハンネス・ニーケルの編集、録音、音響効果編集の六部門に候補入りした。外国語映画賞の一枠ではなく、狭いセット、独自カメラ、後処理音響、長大な素材をまとめた制作部門そのものが評価対象になった。受賞は逃したが、作品の国際的評価を技術面から押し上げた。
バヴァリア・フィルムは1981年8月、世界初公開の約一か月前に、等身大の艇内セットと撮影模型をスタジオ見学ツアーへ公開した。完成映画をまだ見ていない観客が製作物そのものを目当てに集まり、周辺で駐車場所を見つけるのが難しいほどの反響になった。艇内セットは宣伝用の一時展示で終わらず、作品を支える技術遺産として長く保存されることになった。
ヨスト・ヴァカーノは、撮影監督を単なる機材技師ではなく映像の共同著作者として扱うべきだと考えた。『U・ボート』の世界的成功後も一括報酬しか得られない仕組みを変えるため、自費も投じて製作会社バヴァリア、放送局WDR、販売会社ユーロビデオを相手に長期の法的闘争を続けた。約四十年を経た2019年に補償を得て、ドイツで撮影監督や他職種の権利を認める流れへつながった。
マイケル・ベイは『アンビュランス』で走行中の救急車内に緊張を保つ方法を語る際、『U・ボート』の密室演出を比較に挙げた。クリストファー・マッカリーも、潜水艦映画として本作を好み、後年の再編集版の中で受け入れられるディレクターズ・カットとして特に評価している。作品は潜水艦映画の枠を越え、逃げ場のない移動空間と再編集の成功例の両方で参照され続けた。
1941年秋の航海を描く長尺版では、四つのローターを持つエニグマM4が通信に使われている。M4自体は1941年に配布が始まっていたが、Uボート通信で四番目のローターを用いる新方式の正式運用開始は1942年2月1日だった。したがって画面の装置は存在し得ても、物語の時期にその方式で通常運用される描写は早い。
潜水艦内部のリアリティが強いため、『U・ボート』の狭い艦内場面は本物のUボート内だけで撮影されたと受け取られることがある。実際には狭さや揺れを再現する精巧なセット撮影が大きく、実物だけの記録映画として見るのは違う。