主な参考資料
- AFI
- Los Angeles Times
- The Academy
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1989年公開。脚本を読んだマイケル・ダグラスがプロデューサーのスタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングへ持ち込んだ企画で、全米脚本家組合のストライキで撮影開始は延期された。美術監督ノリス・スペンサーは大阪で約5か月半の準備に当たり、リドリー・スコットも8か月にわたり日本を往復したが、1988年10月31日に始まったロケでは、繁華街の交通整理、撮影可能時間、銃器をめぐる規制が米国班と日本側の摩擦になった。高倉健は当初、退職間近の小柄で酒浸りという人物像を自分には不向きだと考え、勝新太郎を薦めたが、スコットは役を高倉向けに作り替えて参加を粘り強く求めた。佐藤役は奥田瑛二にも打診されており、本人によれば『千利休 本覺坊遺文』への出演約束と舞台を理由に、来日したキャスティング・プロデューサーからの再考要請も断ったという。当時に渡された脚本は完成版と大きく異なり、佐藤は英語も話す「普通の男が実は凶悪犯」という設定だったと奥田は回想している。製作費は3,000万ドルとされ、世界興収は集計元によって約1億3,400万ドル前後であり、異文化衝突を描く映画を作るために現場がまず異文化衝突の実地演習をしていた、というわけである。
奥田瑛二は、後に松田優作が演じた佐藤浩史役のオファーを受けていた。しかし映画『千利休 本覺坊遺文』への出演約束と舞台の先約があり、キャスティング・プロデューサーが来日して出演を求めても、「降板すれば多くの人に迷惑が掛かる」と断った。奥田によれば、当時渡された脚本の佐藤は、普通の男に見えて実は凶悪犯という設定で、英語の台詞も多く、完成版とは大きく異なっていた。
本作の企画を前へ進めたのは、主演のマイケル・ダグラスだった。脚本を読んだダグラスは、『危険な情事』(1987)で組んだ製作者スタンリー・R・ジャッフェとシェリー・ランシングへ持ち込み、二人に製作を依頼した。
大阪・京橋の狭い路地で高倉健が姿を見せると、周囲の反応は米国人スタッフの想像を超えた。マイケル・ダグラスは、高倉への熱狂を「米国であれほどの崇拝を見たのはブルース・スプリングスティーンくらい」と振り返っている。
大阪の製鉄所で撮影が予定より15分遅れ、午後5時を迎えた瞬間、工場側の担当者は終了を命じた。それでも回るカメラの前へ入り、レンズを手で覆って撮影を止めたという。
日本での撮影費は1日あたり推定14万5,000ドルに達していた。撮影班は日本を予定より3週間早く離れ、製作者シェリー・ランシングは、残る室内場面をロサンゼルスで撮るほうが効率的だったと説明している。AFIは日本撮影の金額をこの移転理由と併記しており、費用を抑える意味もある判断だった。移動後は日本人俳優との契約を結び直す必要があり、査証が間に合わない端役は似た俳優へ替えるか、登場自体を削った。小道具と車両も複製・輸送され、日本から送ったプロパンガス燃料の車両2台は米国の安全基準を満たさず、撮影後にパラマウントが廃棄した。
日本で撮り切れなかった大阪は、米国の複数地点で再構成された。製鉄所はカリフォルニア州フォンタナ、街路はロサンゼルス中心部、空港はLAX、ヤクザの会合場所はナパのシャンドンのブドウ園である。ブドウ園への変更だけで、予算は35万ドル増えた。
國村隼によれば、リドリー・スコットの現場ではカメラを4台ほど回し、同じ場面を平均約7テイク撮った。松田優作は台詞が同じでも動きと印象を毎回変え、「リドリーから『お前のイメージはそれだけか』と問われている気がする」と國村へ語ったという。病状を感じさせず、その要求を楽しんでいた。
松田優作は1988年9月にがんの告知を受けた後、本作の佐藤役を演じた。『ブラック・レイン』は遺作となり、米国公開から約6週間後の1989年11月6日、膀胱がんのため40歳で亡くなった。
ジャッキー・チェンは1988年、マイケル・ダグラスの相手役として本作への出演を打診された。しかし役が麻薬を扱う悪役だったため、長年築いたイメージをアジアの観客へ裏切れないとして断った。本人は後年、「共演は構わないが、悪役はできない」と説明している。
マイケル・ダグラスは2006年のキャリア回顧で、『ブラック・レイン』を「自分のお気に入りの一本」と明言した。日本人キャストとの撮影を映画作りの魔法のような経験と振り返る一方、大都市で警察の撮影協力を得られず、一部を米国へ持ち帰った難しさも語っている。
1989年・本人インタビュー 公開当時のマイケル・ダグラス取材を見る NBC 5の映画記者ボビー・ワイガントが、1989年9月9日にマイケル・ダグラスへ行った『ブラック・レイン』公開時の取材映像。 The Bobbie Wygant Archive Vimeoで見る ↗1988年の全米脚本家組合ストライキにより、本作の製作は延期された。当時の業界記事は10月15日の撮影開始を見込んでいたが、プロダクション・ノートが記録する実際の主要撮影開始日は10月31日で、場所は大阪だった。
リドリー・スコットは準備期間の8か月に何度も来日した。日本の大都市が予想以上に均質で近代的だったため、製作デザイナーのノリス・スペンサーと、コンクリートやガラスの表面下に残る独特の質感を探し続けたという。ロケハンは建物選びだけでなく、文化を観察して吸収する時間でもあった。
マイケル・ダグラスはNY市警刑事マイク・シーハンに同行し、ハーレムの暴行現場や、警官2人が射殺された夜の捜査現場まで見学した。一方、日本への事前取材は意図的に避けた。ニックが初めて日本へ来る人物なので、自分自身の驚きも役と同じにしたかったからである。
クラブで働くジョイス役のケイト・キャプショーは、大阪の高級クラブ「アルジャン」で4時間のシフトを実際に体験した。担当した6卓を約45分ずつ回り、客の飲み物を満たし、背中をさすり、冗談へ笑うなど、接客の一連の動きを役作りに取り込んだ。
大阪で主要撮影を始めた時、米国から来たスタッフは45人、日本側のスタッフは100人を超えていた。リドリー・スコットは言語と撮影慣行が異なる班へアクションの狙いを伝えるため、日本で撮る各ショットを事前に絵コンテで組み立て、共通の設計図として使った。
製作デザイナーのノリス・スペンサーは5か月半を日本で過ごし、ロケ地探しと準備を進めた。日本にはセットの飾り込みだけで4班が置かれ、同時にニューヨークとロサンゼルスでも各班が動いた。実景主体の映画だが、画面の細部は複数都市の美術班が並行して作っていた。
撮影はハワード・アサートンで始まったが、途中からヤン・デ・ボンへ交代した。完成版ではデ・ボンが撮影監督、アサートンが追加撮影としてクレジットされている。デ・ボンはSuper 35で、画面比率の変更へ対応できる余白を残しながら大阪の夜景と米国の代替ロケをつないだ。
ハンス・ジマーにとって本作は、リドリー・スコットと初めて組んだ映画だった。パラマウントでの試写後、製作者から大勢の前で「映画を台無しにしている」と音楽を激しく責められ、疲労も重なってジマーは倒れた。目を覚ますと、スコットが製作者へ「私の作曲家に二度とそんな話し方をするな」と詰め寄っていたという。
佐藤の衣装には計2万5,000ドルが投じられた。ジャン=ポール・ゴルチエの金属縁サングラス、ケンゾーの金色のスーツ、ジャンニ・ヴェルサーチのブーツ、東京のバイク用品店で買った黒い革の乗馬ズボンを組み合わせ、危険さと高級感を同時に作った。
大阪にある設定の菅井邸は、実際にはロサンゼルスのフランク・ロイド・ライト設計「エニス邸」で撮られた。リドリー・スコットは同じ建物を『ブレードランナー』(1982)のデッカード邸にも用いており、二作品は監督と画調だけでなく、実在の建築物でもつながっている。
The Numbersは本作の製作費を3,000万ドル、世界興行収入を1億3,389万2,212ドルと集計している。Box Office Mojoの世界興収は1億3,421万2,055ドルで、約32万ドルの差がある。したがって概算では「製作費3,000万ドル、世界興収約1億3,400万ドル」だが、宣伝費や劇場取り分を含まないため、最終利益までは断定できない。
本作は第62回アカデミー賞で、音響賞と音響効果編集賞の2部門にノミネートされた。派手な都市映像だけでなく、銃声、バイク、工場、群衆、ハンス・ジマーの重い打楽器をまとめた音の設計も、公開時に専門部門で評価されていた。
【ネタバレあり】1989年には、リドリー・スコット版『ブラック・レイン』と今村昌平監督『黒い雨』という、英題がともにBlack Rainの映画が公開された。物語も製作も無関係だが、今村版は広島原爆後に降った放射性降下物を含む雨を扱い、スコット版でも菅井が戦後の記憶として同じ「黒い雨」を語る。偶然の同題だが、言葉が指す歴史的現象は共通している。
「松田優作は膀胱がんをリドリー・スコットに隠し、『これで永遠に生きられる』と言って出演した」という逸話は広く流布している。松田が告知後に佐藤を演じ、本作が遺作になった事実は確認できるが、この一文を松田から直接聞いた人物や同時代の取材記事は特定できなかった。病気と遺作という確定事実に、出典不明の名台詞を一続きにしてはいけない。
「『ブラック・レイン』の筋書きは、もともと『ビバリーヒルズ・コップ2』(1987)のために考えられた」という説がある。しかしAFI、BFIの製作ノート、脚本家・製作者の確認可能な取材を探しても、この転用経路は裏付けられなかった。似た警察アクションというだけで、同じ企画だったとは確定できない。
「撮影班のビザ切れでクライマックスをナパへ移した」は原因を取り違えている。AFIは日本での撮影費を1日あたり推定14万5,000ドルと記録し、製作者シェリー・ランシングは、残る室内場面をロサンゼルスで撮るほうが効率的だったと説明している。査証問題が起きたのは、移動後に再契約した一部の日本人俳優であり、ナパ移転そのものの単独原因ではない。
「高倉健と松田優作は英語をまったく話せず、全ての英語台詞をカンペの音だけで覚えた」という説は、今回確認した本人・監督・共演者取材では裏付けられなかった。国際撮影で言語上の調整が必要だったことと、二人が英語を一切理解せず全台詞をカンペで処理したことは別である。具体的な撮影記録が見つかるまでは、確定情報として扱わない。