2001年公開。押井守監督、伊藤和典脚本による日本・ポーランド合作で、ポーランド人の俳優とスタッフを起用し、ポーランド語で撮影された実写映画である。押井が愛好してきたポーランド映画の記憶を足場に、約3か月の現地撮影を行い、ポーランド軍の協力で兵士や車両、ロケーションをそろえた。撮影自体はカラーフィルムで行い、素材をデジタル化して合成や色調整を重ね、現実のワルシャワをセピアと緑に沈む仮想世界へ変換した。日本のゲーム世界を描くために撮影隊をポーランドへ運び、本物の軍隊まで借りたうえで、最後は画面から現実らしい色を削り取ったのだから、虚構を作る工程のほうがよほど現実離れしていたのである。
褐色がかった世界は、白黒フィルムや単色撮影で作られたのではない。全編をカラーで撮影し、後からデジタル工程で色を選び、削り、場面ごとに揃えた。元の色を持っているからこそ、肌、炎、食物、空のどれを残すかを別々に判断できる。色の乏しさは情報不足ではなく、膨大な色情報から必要なものだけを選んだ演出で、知ると画面の見え方が変わる。
画面全体へ同じセピア色を掛けただけなら、人物も空も同じ変化をする。ところが本作ではデジタルマスクを作り、一つのショットの部分ごとに色を調整した。肌から赤みを抜き、炎や食物だけに別の温度を残すといった選択ができるのである。何気ない皿や布だけが周囲と違って見える場面を追うと、色は美術の後処理ではなく、現実感を管理する編集装置になっている。
ポーランド撮影は、費用が安いという一条件だけで決まったのではない。押井守は、軍の協力を得られること、映画制作のインフラがあること、そして自身がポーランド映画を敬愛していたことを挙げている。現地の人と街を日本風に偽装せず、そのまま日本資本のSF映画の中心へ置いたのである。灰色の建築や軍用車両を見ると、背景を借りただけでなく、その国の映画史へ参加しようとした選択に見えてくる。
画面に日本人俳優は現れず、台詞もポーランド語だが、押井守は本作を日本映画の実験として作った。国籍を俳優の顔や舞台へ求めず、日本の資本、脚本、監督の視点がどこまで異なる言語と制作現場を統合できるか試したのである。外国を日本に見せかけるのではなく、ポーランドの俳優と都市をそのまま中心へ置いた。字幕を外して画面だけを見ると、どの要素を日本映画と感じるかが観客側へ問い返される。
ポーランドは数日だけ背景を撮るロケ地ではなかった。主要撮影は約3か月にわたり、現地の俳優、スタッフ、軍用機材を制作体制へ組み込んだ。日本で撮った人物を海外風景へ合成するのではなく、撮影現場そのものを別の映画文化へ移したのである。街角の群衆や室内の光が観光映像らしく見えないのは、長期滞在の中で日常の場所として撮れたからだと分かる。
ゲーム内の戦車やヘリコプターは、すべてをコンピューター内で作った兵器ではない。ポーランド軍の協力を得て実物の軍用車両を動かし、爆発や画面処理と組み合わせた。現実の重量、排気、地面の振動があるから、デジタルで色を変えても物体の存在感が消えない。プレイヤーにとって仮想戦場である一方、撮影現場では本物の軍が動いていたという反転が、作品の現実とゲームの境界に似ている。
前半の世界から色を奪ったのは、終盤で単に鮮やかな画面へ切り替えるためだけではない。全編をカラー撮影して情報を保持し、「Class Real」で色を戻すことで、観客に「こちらこそ現実だ」と身体的に信じさせる。ところが豊かな色が真実の証拠とは限らない。色彩の快感そのものを罠に使っているのである。
川井憲次の壮大な音楽は、ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏された。さらに終盤ではオーケストラそのものが画面へ現れ、劇伴として観客を包んでいた音が、物語内の演奏へ姿を変える。現実とゲームの境界が揺れる場面で、画面の外にいた演奏者まで世界へ入り込むのである。音楽がどこから鳴っているかを意識すると、Class Realの説得力と不気味さが同時に増す。
押井守は、ポーランドの俳優を日本人らしく演じさせたり、実写をセル画そっくりに変えたりしたのではない。現地俳優の身体を使いながら、絵コンテ、正面性、反復、長い静止といったアニメの演出文法を実写へ移した。アッシュが食事を作る動作も、自然な日常でありながらカットの順序が図形のように整理される。実写とアニメの違いを素材ではなく、時間と構図の作り方から考えた映画なのである。
現実らしさを測る道具は、端末の数値だけではない。アッシュが犬へ用意する肉や卵と、自分が口にする質素な食事の色・量・手触りが、世界の豊かさを比較させる。食物は身体へ入るため、背景よりも「これは本物か」という感覚を強く刺激する。クラス・リアルの鮮やかさと並べると、豪華な食事ほど現実的なのか、それとも欲望を満たすゲームの演出なのかが揺らぐ仕掛けだ。
情報を導く「Bishop」を演じるのはDariusz Biskupski。ポーランド語で司教を意味する「biskup」と同根の姓を持つ俳優が、英語で司教を意味する役を演じている。意図的な配役か偶然かは確認できないが、複数言語が交差する本作らしい一致である。字幕では役名だけが残りやすいが、クレジットまで見ると、現実の俳優名がゲーム内職能へ接続している。
メモリアルBOXは本編の保存だけでなく、撮影前の設計をまとめている。メイキング、絵コンテ、コンセプト写真、ロケーション写真、プリプロダクションブックを並べれば、現地の街や軍用車両が、どの段階でゲーム世界の色と構図へ変わったか追える。完成作が強く加工されているほど、素材の現実との差が重要になる。ロケ写真と本編を比較すると、デジタル処理が何を消し、何を残したかを具体的に検証できる。
「アヴァロン」はアーサー王伝説で、傷ついた王が運ばれる安息の島の名である。映画ではそれが、戦い続けるプレイヤーが到達を夢見るゲーム内の領域へ変わる。救済の場所でありながら、戻れない昏睡や死の噂とも結びつき、休息と消滅が同じ意味を持つのである。題名の由来を知ると、アッシュの前進が勝利への攻略だけでなく、戦士が最後に横たわる島を探す旅にも見えてくる。
Class Realの街に掲示されたオペラ『Avalon』のポスターには、プロダクションデザイナーBarbara Nowakの名が入っているとされる。映画世界の美術を設計した人物が、劇中世界でも文化を作る名として残された署名である。スタッフ名を単に看板へ隠すのではなく、現実と仮想の境界にある舞台芸術へ置いた点が作品に似合う。高精細版でポスターを追えば、作り手がClass Realへ紛れた瞬間を確認できる。
ポーランド軍の協力を受けたことから、軍用車両やヘリコプターはすべて無料貸与だったという話も広まった。ただし監督の証言で確認できるのは協力の事実までで、無償の範囲を示す資料は見つかっていない。大がかりな画面ほど、数字や条件が独り歩きしやすい。
色が戻る場面を手がかりに、Class Realだけが現実だと読む説がある。けれど監督が各層の真偽を一つに決めた証言は見つかっていない。画面の色は答えというより、観客を迷わせる仕掛けかもしれない。
画面はセピアのフィルター一枚で作った、という説明を見かけることがある。実際は全編をカラーで撮り、部分ごとに色を操作する工程が語られている。単純な一発処理ではなかったわけだ。