主な参考資料
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1991年公開。北野武の監督第3作であり、自身が出演せず、編集にも初めて正式に名を連ねた転換作である。暴力を前面に出した前2作から方向を変えたいと考えた北野は、台詞を極端に絞った純粋な恋愛映画を選び、身振りと編集で語る「現代のサイレント映画」に近い設計を採った。音楽には久石譲を初めて迎え、のちに『HANA-BI』や『菊次郎の夏』へ続く長い協働の入口にもなった。初公開時の日本の興行収入・配給収入は今回確認した資料では公表値を特定できず、The Numbersに記録された世界興収3万1042ドルは2004年の韓国公開分だけなので、日本での成績と取り違えてはならない。早口で名を売った芸人が、自分の姿と台詞を引き算して監督像を固めたのだから、映画界の計算は妙である。
『その男、凶暴につき』(1989)『3-4×10月』と暴力を前面に出した作品が続いたあと、北野武は同じ型を繰り返さず、純粋な恋愛映画へ方向を変えた。警察も暴力団も物語の中心には置かず、茂がサーフィンを覚え、貴子がその姿を見守るひと夏を選んだ。監督第三作で作風を反転させたことが、後の北野映画にある抒情的な側面をはっきり示す転換になった。
一部の批評家が本作を「神秘的」と評したのに対し、北野武はむしろ通過儀礼の映画だと捉え、同時に死を扱う作品でもあると説明している。茂は拾った板から始め、失敗を重ね、仲間と大会へ進むが、その到達は明るい成功譚だけでは終わらない。サーフィンの習得と突然の不在が一続きに置かれた構成は、恋愛と青春を死から切り離さない監督の考えに沿っている。
本作は、北野武が自分の監督作に出演しなかった最初の一本である。前二作では主演俳優としても画面の重心だったが、第三作ではその顔と声を完全に外し、真木蔵人と大島弘子を中心に据えた。監督自身の無表情な身体に頼らず、海へ向かう二人の歩行、待つ時間、切り返しの少ない構図によって北野映画のリズムを成立させている。
北野武は本作で初めて、企画・脚本・監督・編集の四役を正式に担った。第15回日本アカデミー賞の記録も、第三作で企画と脚本と編集まで手掛けたことを転換点として紹介している。台詞を削った物語、固定構図、行動の途中を飛ばす編集が別々の部署の偶然ではなく、企画段階から仕上げまで連続した判断として組み上がった。
台詞をなくす発想が、主人公の設定より先にあった。北野武は先に言葉では伝わらない感情を画面へ移す形式を選び、台詞を排した物語の中心に茂と貴子を置いた。二人の関係は説明字幕で補われず、視線、歩く速度、サーフボードを一緒に持つ仕草、同じ場所で待つ時間によって伝えられる。
北野武は本作で長い固定ショットを重ね、ズームや俯瞰を避けた。撮影スタッフはカメラをもっと動かしたがったが、監督は人物の表情や心理を細部まで説明しない静止した構図を選んだ。一方で完全な固定にはせず、茂と貴子が移動する場面では横方向の移動撮影をまれに使い、動きそのものを画面の変化にしている。
北野武は俳優の台詞より先に映像が浮かび、それをスライドのように並べていくと説明している。例に挙げたのは、十枚ほどの絵でも浦島太郎を語れる紙芝居だった。海辺、仕事場、バス停、大会という短い場面が説明的な会話なしに順番に置かれ、観客がその間を結ぶ構成は、この静止画中心の発想と一致する。
北野武は撮影中に脚本から離れることが多く、即興を優先した。カメラの後ろでは、自分が興味を持てない要素をフレームから外し、判断を長く保留せず素早く撮ったという。完成版に背景説明や心理を補う小道具が少ないのは、足りない情報を後で埋めなかったからではなく、現場で必要なものだけを残した撮影方法による。
編集技師の太田義則は本作で編集助手として北野組へ初参加した。ここから『アウトレイジ 最終章』まで十六作品、二十七年にわたる編集協働が続いた。本作で北野武が初めて正式な編集クレジットを担った時期と、監督独自の指示を実際のフィルムへ置き換える相手が加わった時期は重なっている。
本作の編集で太田義則は、動きがつながらなくても監督の案を一度は形にし、「ダメと言わない」ようベテランのスクリプターから念を押された。それ以前には北野武の案が映画的ではないと退けられることもあったため、経験の浅い太田が指名されたのではないかと本人は振り返っている。行動の途中を飛ばす編集を、定石違反だけで却下しない環境が作られた。
太田義則が初めて北野武と組んだ頃、監督の「止めて」は、そこでカットする意味にも、画面をストップモーションにする意味にもなった。北野は「目を動かすところから始め、終わったら止める」といった独自の言葉で切る位置を伝え、太田が文脈から操作を読み分けた。二人の共通語は最初から完成していたのではなく、本作を起点に蓄積された。
劇伴を使わなかった『3-4×10月』とは反対に、本作は企画段階から音楽を入れる前提で始まった。プロデューサーの森昌行は、台詞のない主人公へ具体的な説明場面を積み重ねる代わりに、感情のニュアンスを音楽で表したかったと記している。久石譲の曲は完成映像へ後付けされた装飾ではなく、物語を成立させる要素として先に組み込まれていた。
久石譲はニューヨーク滞在中に依頼の電話を受けたが、『その男、凶暴につき』(1989)『3-4×10月』から自分へ話が来るとは考えず、「何かの間違い」だと思った。帰国後に本作のラッシュを見ると、暴力的な表面の奥にある北野映画の純粋さを理解し、自分の音楽が求められた理由が分かったという。後に続く長い協働は、当然視された組み合わせではなかった。
久石譲はコンサートツアーと制作時期が重なり、一度は依頼を断った。北野武側は別の作曲家へ切り替えず、約一か月ツアー終了を待つことを選んだ。映画スタッフや設備をその間も拘束する費用が生じる異例の判断であり、初めて組む作曲家の音を作品の前提から外さなかった。
台詞が少ない映画では、劇伴を絶えず流して感情を補う方法も選べた。北野武は反対に、普通なら音楽が入る場面から抜くことを久石譲へ提案し、日常動作や練習場面の多くを環境音に任せた。音楽が強く聞こえるのは量を増やしたからではなく、鳴らす場所を絞ったためである。
北野武が求めたのは、朗々と大きく広がる音楽ではなく、寄せては返すような単純な旋律だった。久石譲はその言葉をミニマル音楽の精神と捉え、少ない素材を反復しながら変化させる主題へ置き換えた。「Silent Love」の循環する動きは、海の映像に似た印象だけでなく、監督から作曲家へ渡された具体的な注文に根を持つ。
当初はエリック・サティ風の曲が映画の中心になる想定だった。ところが北野武は完成した「Silent Love」を強く気に入り、こちらを主題へ移すよう希望した。サティ風の曲は捨てられず副次的な位置へ回され、完成曲を聴いた後に映画全体の音楽的な重心が組み替えられた。
貴子の記憶が日記のように連なる終幕は、最初から音楽が感情を語ることを想定して撮影された。台詞も状況説明もないまま、二人が過ごした断片が「Silent Love」とともに続く。映像が足りないため編集後に音楽を加えたのではなく、撮影時点から音楽へ物語の一部を渡す構造だった。
劇伴は1991年7月、ワンダーステーション六本木で録音された。久石譲は作曲、編曲、プロデュースに加え、ピアノ、キーボード、フェアライトのプログラミングを担当した。宮野弘紀のギター、齋藤誠のベース、篠崎正嗣のヴァイオリン、堀沢真己のチェロ、広谷順子の声が加わり、電子音と生楽器を混ぜた音色になっている。
サウンドトラックCDは1991年10月9日に発売され、映画の日本公開日である10月19日より十日早く店頭へ並んだ。全十四曲を収めた盤は一度廃盤となったが、2001年6月28日にジャケットを変更し、同じ収録内容をリマスターして再発売された。映画の静かな語りを担った音楽は、本編と並行して独立した商品史も持っている。
茂役の真木蔵人は中学二年頃にサーフィンを始め、撮影時にはすでに海とボードの扱いを知っていた。後年も競技へ進むほどサーフィンを続けた俳優が、序盤では板に立てない初心者として失敗を重ねる。海上の動作を代役へ切り替えるだけでなく、経験者本人が茂の上達を段階的に演じられる配役だった。
詳細クレジットには、米山明宏、瀬能恵美子、伊崎哲也の三人が手話指導として記録されている。茂と貴子の関係は長い手話会話を字幕で説明する形式ではないが、短い手の動きや身体の距離を俳優任せにしたわけでもない。台詞の少ない演技を支える専門協力が制作体制に組み込まれていた。
題名「あの夏、いちばん静かな海。」は冒頭には出ず、終幕の回想を経てから初めて表示される。観客が二人の時間と喪失を知った後で、現在進行形だった夏が「あの夏」へ変わる。国際題「A Scene at the Sea」より時間の隔たりを強く含む日本語題が、最後の一文として置かれている。
最初の海は、ごみ収集車の窓越しに見える。ごみ収集車のフロントガラス越しに、茂の視点からきらめく水面が現れる。その後に壊れたサーフボードを拾うため、海とサーフィンは別世界から突然届く夢ではなく、毎日の仕事の途中に以前から見えていた場所として結びつく。
茂は最初のサーフィン大会へ出かけ、会場で貴子と待っている。それでも自分の名を呼ぶアナウンスを聞けず、競技へ参加しないまま大会が終わる。遅刻や恐怖心による失敗に置き換えず、音声だけで進行するイベント側と参加者の間に情報が届かない仕組みを、そのまま物語の出来事にしている。
茂が参加する後半の大会には、「Chikura Surf Classic ’91」という名称が使われる。場所を千倉、年を1991年と特定する表示であり、どことも知れない海辺の寓話に見える物語へ当時の競技文化を刻んでいる。茂はこの大会で決勝へ進み、表彰の場でトロフィーを受け取る。
終幕のモンタージュには、観客がすでに見た場面だけでなく、本編中には提示されなかった二人の日常も混ざる。単なる総集編ではなく、映画が省略していた時間を最後に開き、貴子の記憶として二人の生活を組み直す編集である。「Silent Love」が同じ旋律を反復する間に、初めて見る過去が失われた時間として現れる。
後に映画監督となる篠崎誠は評論家時代、本作の撮影最後の三日間を現場で見学した。篠崎が北野武の前二作について書いた文章を監督本人が読み、雑誌の取材を頼まれたことが入口だった。商業映画のロケを外から見ていた経験は、篠崎が後に自作を作る以前の具体的な接点として残っている。
1992年3月20日の第15回日本アカデミー賞で、本作は作品、監督、脚本、編集の各優秀賞を受けた。北野武にとって四部門すべてが初受賞であり、作風を大きく変えた第三作が企画から編集まで評価されたことになる。初めて北野作品へ参加した久石譲は、複数作品を対象とする同年の最優秀音楽賞を受賞した。
バンダイビジュアルは2017年9月27日、本作を初めてBlu-ray化した。『アウトレイジ 最終章』公開記念として、未Blu-ray化だった北野武監督作十三本を同時発売した企画の一枚である。本作の収録時間は本編100分と特典二分で、公開から二十六年後に高画質商品としてシリーズへ組み込まれた。
本作は1992年、第10回トリノ若手映画国際祭の長編コンペティションに選ばれた。公式アーカイブには、監督・脚本・編集を北野武、海外販売窓口を東宝インターナショナルとして記録している。『HANA-BI』で北野武の国際的評価が広く定着する五年前に、第三作はすでに海外映画祭と販売網へ乗っていた。
国際交流基金は2010年4月から2011年3月にかけ、本作を含む日本映画七本を東欧巡回映画祭で上映した。対象にはオーストリア、ギリシャ、クロアチア、チェコ、ハンガリー、バルト諸国、バルカン諸国などが含まれる。初公開から約二十年後も、北野映画を海外へ紹介する公的な上映作品として選ばれていた。
海外資料には、真木蔵人が「サーフィン王者として活動を始めた」とする説明がある。しかし、日本選手権優勝の年月を示す競技記録が見つからず、本作の撮影時期との前後関係は確認できない。撮影前から高い技術を持っていた可能性はあるが、すでに王者だったとまでは言わない方がよさそうだ。
「一部のあらすじはトロフィー獲得を優勝と要約するが、BFIはクラスの決勝進出による受賞と記述し、賞の正確な名称は画面再確認が必要」という話がある。ただし、現時点で当事者資料や制作記録まで裏付けはそろっていない。茂は二度目の大会で優勝するに関する手がかりは残るが、現段階で断定はできない。
久石譲はコンサートツアーと重なったため当初依頼を断ったが、北野武側は終了まで約一か月待って起用したと伝えられている。映画の仕上げを止め、スタッフや設備の拘束費用まで受け入れて作曲家を待ったことで、音楽は完成後に足す装飾ではなく、映画の呼吸を決める工程として扱われた。
当初はエリック・サティ風の曲が主題になる想定だったが、北野武が「Silent Love」を気に入り、こちらをメインテーマへ移したとされる。サティ風の曲は捨てずに副次的な位置へ回され、素朴な反復旋律が恋愛と波の記憶を結ぶ中心になった。完成曲を聴いて映画全体の重心を変更した、音楽編集上の具体的な判断である。
公開前の取材試写では、映像がほぼ完成していながら久石譲の音楽がまだ入っていない版が上映されたという。その段階では現実音と沈黙だけで全編が進み、完成版では久石の劇伴が加わった。音楽の有無を比較できる制作途中の版が、取材関係者向けに存在していた。