薄くなった白髪、たるんだ頬、張り出したお腹。『DIGGER/ディガー』(2026)でトム・クルーズが演じる石油会社のCEOは、いつもの頼もしいヒーローとはずいぶん違う姿をしています。その顔をデザインしたのが、特殊メイクアーティストのカズ・ヒロさんです。カズ・ヒロ(Wikipedia)

今回は複数記事を元にカズ・ヒロさんのディガーの特殊メイクについてご紹介していきます。

『グリンチ』での消耗と、映画界からの引退

カズ・ヒロさんは、1969年京都府生まれ。10代から独学で特殊メイクを学び、ディック・スミスと文通しながら技術を磨いてきたアーティストです。日本では黒澤明監督の『八月の狂詩曲』(1991)などに参加し、1996年に渡米。リック・ベイカーのもとで『メン・イン・ブラック』(1997)などの特殊メイクに携わり、ハリウッドで経験を積みました。本人の公式プロフィール/生年・出身地のプロフィール

順調にキャリアを積み重ねてきましたが、『グリンチ』(2000)でトラブルが起きます。

『グリンチ』では、全身を緑の毛で覆われる特殊メイクをジム・キャリーに装着しました。デザイン変更が重なったり、大きなコンタクトレンズには人工雪が入り込み不快感を生むなど、キャリーにとっても厳しい撮影でした。当時の状況を伝えるVultureの取材

それもあってなのか、問題になったのはジム・キャリーのスタッフへのひどい態度です。カズさんの証言では、撮影開始から2週間で、進んだのは予定の3日分。突然いなくなったり、戻ってきても準備したものが壊れていて撮影できないことがあったそうです。(何が壊されていたのかまでは書かれていませんが、特殊メイク用の素材だったりしたんでしょうか)カズ本人の証言

前日と同じ色を使ったメイクをやり直せと指示されたりと、完全に疲れ果てたカズさんは、リック・ベイカーとプロデューサーの一人に相談。一時的に現場を離れることで、キャリーにその必要性を分かってもらうことにしました。約1週間後、キャリーから直接電話が来たそうですが、カズさんは出ず、折り返しもしませんでした。その後、ロン・ハワード監督から、キャリーが態度を改めると約束したという連絡が入りました。友人から「給料を上げてもらえ」とアドバイスをもらったりしましたが、カズさんは昇給を求めず、代わりに、グリーンカード取得への協力要請を復帰の条件にしました。現場離脱と復帰の経緯

復帰後、キャリーは残りの撮影では怒りを抑えていたそうです。キャリー本人は過去のロサンゼルス・タイムズ紙の取材で、『グリンチ』の撮影を「禅の修行のようだった」と語っています。(お互いにとって過酷な撮影だったのでしょう)Vultureの取材

この体験の後、カズさんはセラピーに通い始め、現場での仕事が自分をどれほど不幸にしていたかに気づきます。もともと内向的な性格に加え、16時間に及ぶ労働や、俳優の突然の変化に備える毎日。そうした働き方を続けたくなかったと話しています。ただ、収入や待遇のよい環境を離れるのは難しく、実際に映画界を去るまでには約10年かかりました。本人が振り返る心境の変化/The Playlistの本人取材

『ルーパー』を区切りに、現代美術へ

映画界を離れる前の最後の作品となった『LOOPER/ルーパー』(2012)にも、実は難題がありました。この作品では、若い主人公を演じるジョセフ・ゴードン=レヴィットと、未来の人物を演じるブルース・ウィリスが同一人物という設定なのですが、顔は似ても似つかないので、この二人を同一人物に見せるという特殊メイクの仕事でした。最初、不可能だと考えて依頼を断りましたが、再び、どうしてもと頼まれ、条件を出して承諾したそうです。(結果は保証できないことと、費用は負担してもらうという条件だったようです)依頼の経緯を伝えるVulture

二人の顔を少しずつ変えて中間を作る方法でいけそうなものですが、実はブルース・ウィリスは、メイクに10分以上時間をかけないことで知られており、この方法は使えずにゴードン=レヴィット側だけを変える必要がありました。カズさん自身は、かなり制限された仕事だったと振り返っていますが、一方、後に『ウィンストン・チャーチル』を監督するジョー・ライトは、その仕事を、派手ではなく信じられる仕上がりだったと評価しています。本人には心残りがあっても、周囲には技術が伝わっていたわけです。カズ本人とジョー・ライトの評価

『グリンチ』をきっかけに色々なことが重なり、2012年、映画の仕事を引退し、現代美術の肖像彫刻に専念します。転機の一つは、師匠のディック・スミスの誕生日に贈った肖像彫刻でした。作品を見たスミスが涙を流して喜んでくれた。その姿を見て、こういう仕事こそ自分がやりたいことだと感じたそうです。本人の講演を伝えたU.S. FrontLine/活動の移行時期を記した公式プロフィール

(映画をよくするために仕事をしているはずが、人から圧力をかけられたり、メイクに時間かけたくないからと断られたら、仕事が嫌になってしまう気持ち、とてもわかります)

巨大な肖像彫刻を制作するカズ・ヒロ
画像引用:カズ・ヒロ公式サイトのプロフィール写真。掲載元:KAZU HIRO。撮影者名は同ページに記載なし。プロフィール/画像原典

オールドマンの説得で復帰、アカデミー賞へ

映画から離れたカズさんに、2016年初め、ゲイリー・オールドマンから連絡が来ます。チャーチルを演じるために特殊メイクを担当してほしい。もしカズさんが断るなら、自分も映画のオファーを受けない、という依頼でした。カズさんは1週間考えたいと返答し、最終的に復帰を決めます。カズ本人が明かした依頼の経緯

その作品が『ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男』(2017)。オールドマンをチャーチルへ変えた仕事で、カズさんは2018年のアカデミー賞を受賞しました。さらに『スキャンダル』(2019)でも受賞。『マエストロ:その音楽と愛と』(2023)では、ブラッドリー・クーパーをレナード・バーンスタインに変身させています。本人の公式プロフィール

(カズさんが引き受けなければ、自分も出ない。それほどまでに必要とされていたということですね。)

そんなカズさんが本作で取り組んだのが、『DIGGER/ディガー』(2026)です。

実在人物の再現ではなく、架空の石油王の顔。イニャリトゥ監督が求めたのは、別人の風貌に変えながら、トムの瞳が持つ力は残すというものでした。シネマトゥデイの監督インタビュー

『DIGGER/ディガー』3か月かけて、石油王の顔をデザイン

監督によると、ディガーの外見の出発点は、アメリカ南部の石油王たちのリサーチでした。カズさんは約3か月かけてデザインを詰め、監督と方向性を固めてからトムに提案。そこへトムのアイデアが加わり、さらに修正を重ねました。シネマトゥデイの取材

求められたのは、石油王らしい強烈な存在感と、メイクに埋もれない俳優の表情。そのため監督は、「トム自身の瞳と力強さ」を残したかったと話しています。顔を変えることと、演技の伝わる場所を残すこと。その両方が必要だったわけですね。監督の説明

赤いジャケットを着て、観衆の前で両手を広げるディガー
画像引用:頬や顎の輪郭、後退した生え際が分かるディガーの場面写真。シネマトゥデイ掲載。© 2026 WBEI and Legendary。掲載記事/画像原典

老けさせるだけではない、頬と肌と生え際

海外のVariety Indiaでは、特殊メイクアーティストのプリーティシール・シン・ドゥーザが、この変身を技術者の立場から評価しています。注目したのは、顔の厚み、肌の質感、輪郭、生え際などの細かな変更。年を取らせるだけでなく、ディガーという人物の顔を作り直している点を挙げています。Variety Indiaの独自取材

ドゥーザが難しさに触れているのは、シリコーンを俳優の顔に合わせて自然に動かすこと。台詞を話し、表情が変わり、カメラが近づいても、貼り付けたものに見えてはいけません。これは制作工程を明かしたカズさん本人の発言ではなく、完成した仕事に対する同業者の評価です。ドゥーザの説明

猫を前に立つ白衣の人物と、黒い部屋着姿のディガー
画像引用:ディガーを近くから捉えた場面写真。前の写真とは衣装も表情も異なりますが、頬の厚みや顎の形を見比べられます。シネマトゥデイ掲載。© 2026 WBEI and Legendary。掲載記事/画像原典

最初は6時間、装着の手順を約1時間へ

顔が完成しても、それを撮影のたびに再現する作業が待っています。トムは米国の番組「New Heights」で、最初のメイクに6時間、外すのにも2時間かかったと振り返っています。12時間の撮影に睡眠時間まで足すと、それだけで一日が埋まってしまいます。本人の対談・18分34秒ごろから

そこで持ち込んだのが、ボードとストップウォッチでした。パーツごとの工程を書き出し、作業時間を計測。チームが繰り返し練習して、最終的には約1時間まで短縮したといいます。トムは、最後には慌てて作業する必要もなくなったと話しています。工程を計測した話・19分43秒ごろから

(6時間じっと座っているだけでも大変そうですが、まあハリウッド俳優がもらえるギャラを考えれば、耐えるべきでしょう)

投稿元:New Heights。トム本人の対談です。17分30秒前後から体型を変えるスーツ、18分34秒前後からメイク時間の話になります。英語音声。該当箇所からYouTubeで見る

スーツを着たまま動いて、役をつかむ

トムは顔だけでなく、体型を変えるスーツも着ています。「New Heights」では、その重さや暑さ、長回し中の発汗についても説明。テイクの合間にはスーツを下ろし、冷却する工夫をしたそうです。本人の説明・17分25秒ごろから

それでも、姿を変えるのは本番だけではありませんでした。日本の来日会見で監督は、トムがその姿での動きを確かめるため、特殊メイクとスーツを着けてリハーサルしたと話しています。周囲がディガー姿に慣れすぎて、普段の姿で現れたトムに驚いた、という話まで残っています。共同通信社の会見取材

ディガーの姿のトム・クルーズと、カメラの前に立つイニャリトゥ監督
画像引用:撮影中もディガーの姿で監督と作業するトム・クルーズ。撮影:Seoju Park/Courtesy of Warner Bros. Pictures。British GQ掲載。掲載取材/画像原典

本作には、約10分間話し続けるワンショットもあります。トムが会見で重視していたのは、台詞の暗記より、何をどう伝えるかを探ること。メイクでできた顔と体に、歩き方や話し方をなじませていく作業まで含めて、あの人物になっていったようです。会見で語った演技の準備

参考にした人物たちから顔を作り、トムの表情を残し、撮影で繰り返し使えるようにする。今回は「誰に似せたか」だけでなく、その顔でどう演技できるかにも注目すると、カズさんとメイクチームの仕事が見えてきます。

映画『DIGGER/ディガー』について

強欲な石油会社のCEOが、自ら招いた地球規模の危機の後始末を命じられるブラックコメディーです。日本公式サイト

スタッフ・出演者の公式クレジット/日本公式サイト

出典と関連資料