まず前提として、
この映画では最初から「人の顔と名前」が一致していない
真実を証明するはずの証人も、人を見分けられない
カーネスは目の前のパトリックを「デイヴィス」と呼ぶ。ポール・アレンもパトリックをマーカス・ハルバーストラムと間違え、同僚たちは似た服装と肩書きの仲間を何度も取り違える。したがってカーネスの「ロンドンでアレンと食事をした」という話も、殺人がなかったことを証明する客観的証言にはならない。(全員があまりにも似ているため、本人たちは違いに異常なほどこだわる。名刺交換が命懸けの勝負のように撮られているのも、そのためなのだろう)
ほとんど同じ名刺に、命懸けでこだわる
同じ会社で同じ肩書きを持つ男たちは、ほとんど同じ書式の名刺を決定的な違いであるかのように見せ合う。人間そのものより、肩書きや表面上の差だけが重視される世界を、この一枚が見せている。
映画がわざと残した「現実」と「妄想」の両方の証拠
なぜ、死体も血も消えていたのか
単純な妄想説なら、最初から死体はなかったことになる。しかし不動産業者の不自然なほど冷静な反応は、何かを知って部屋を処理したようにも見える。高級物件の価値を守るため痕跡を消したという解釈も生まれるが、映画は彼女が死体を見たとは明言しない。
アレンに会ったと言うが、パトリックの顔も分からない
カーネスの証言は全夢説の最大の根拠だが、本人を別人と思い込み、告白も冗談としか理解しない。この世界では人間が入れ替わっても誰も気づかないため、「アレンを見た」という第三者証言も信頼できない。
殺人衝動の記録だが、犯行の物証ではない
手帳いっぱいの暴力的な絵は、殺人衝動が長くパトリックの中にあったことを示す。しかし絵は犯行そのものの証拠ではなく、「描いたことを実行した」「描いただけ」のどちらも確定しない。
現実は、はっきりと壊れ始める
猫を要求するATM、都合よく爆発するパトカー、警官を倒しながら逃げ切るパトリック。ハロンとターナーの説明に従えば、ここは殺人者ではなかった男の空想が明かされる場面ではなく、すでに殺人を行った男の知覚が完全に壊れていく場面に近い。
ネットでよく見る解釈の例は下記なのだが——
殺人はすべてパトリックの妄想だった
ATMが猫を入れるよう要求し、拳銃一発でパトカーが爆発する。ポール・アレンの部屋から死体が消え、弁護士カーネスもアレンに会ったと話すことから、殺人はすべて彼の頭の中だったと読む説。
殺人は現実に起きたが、周囲が見て見ぬふりをした
同じ髪型、スーツ、名刺を持つ男たちは互いの名前すら覚えていない。死体が消えたのも、資産価値を守りたい不動産関係者が事件を隠したからだと読む。
前半の殺人は起きたが、終盤の大暴走は幻覚だった
ホームレスやポール・アレンへの殺人までは現実だが、ATMに猫を入れようとする場面から現実と幻覚が混ざり始めたと考える説。監督と共同脚本家の発言には、これがもっとも近い。
現実か妄想かを確定できないこと自体が結末である
パトリック本人の認識も、他人の顔を見分けられない社会の証言も信用できない。何が起きたかを一つに決められないこと自体が、映画の風刺だとする読み方。
実際の関係者の証言を集めてみると
「全部夢だった」とは答えない
ハロンは、殺人が現実か明答すれば映画を観客から取り上げることになるとして最終回答を拒んだ。ただし現実感が薄れ始める境目として、ATMに “FEED ME A STRAY CAT” と表示される瞬間を挙げている。 回顧取材
「すべて頭の中だった」というオチは避けた
ターナーは、最後にすべてが夢や妄想だったと明かす映画を嫌い、そのように見えないよう脚本を書いたと説明する。途中からパトリックの知覚は変化するが、その中でも出来事は起きており、観客が「彼は実際にやった」と考えるようにしたかったという。 オーラルヒストリー
「サイコパスからサイコティックへ」
ベールは、パトリックが映画の中でサイコパスから、現実認識そのものが崩れたサイコティックな状態へ進むと説明した。最初からすべて妄想なのではなく、社会へ紛れた殺人者が次第に幻想と現実を区別できなくなる流れである。 出演記録
探偵の態度も、一つへ決めなかった
ハロンはウィレム・デフォーに、同じ尋問場面を「嘘だと確信」「信じている」「まだ分からない」の三通りで演じさせ、そのテイクを混ぜた。探偵の表情は正解の手掛かりではなく、観客をパトリックと同じ不安定な位置へ置く演出だった。 講演記録
批判の中心は、男たちの価値観にあった
エリスは批判の対象として、1980年代マンハッタンの男性的な成功観、拝金主義、若い株式仲買人たちの尊大さを挙げた。犯行手順の謎解きだけでなく、彼と同じ姿の男を大量に並べ、告白すら受け止めない社会が批判されている。 25周年オーラルヒストリー
殺人のすべてが妄想だったわけではない。ただし、画面で見たことのすべてが現実だったわけでもない。
ハロンとターナーの発言を素直に受け取るなら、映画は「実は一人も殺していませんでした!」なんて種明かしを用意していたわけではない。少なくとも前半のパトリックは、殺人を実行する人物として描かれている。
しかし彼は次第に、自分の行動と妄想を区別できなくなる。ATMが猫を入れろと命じ、拳銃一発でパトカーが爆発するあたりから、観客も壊れた知覚の中へ入る。画面に映った犯行を一件ずつ「現実」「妄想」と完全に仕分けることはできない。(見ている観客自体も混乱の渦に入っていく)
ポール・アレンの死は、まだ否定できない
ストーリー上では、ポール・アレンが本当に死んだ可能性は強く残る。カーネスはロンドンで会ったと言うが、パトリックの顔すら見分けられない。アレンも殺される前からパトリックを別人だと思っている。この世界では、誰が誰なのかが驚くほど重要ではない。
彼らは同じ髪型、同じスーツ、同じ勤務先、ほとんど同じ名刺を持つ。自分だけは特別だと思いながら、外から見れば交換可能な男たちである。だから一人が消えても、別の誰かがその名前で認識される。
告白しても、誰にも届かない
そう考えると、ラストで起きているのは「殺人が妄想だったことの発覚」よりも、もっと嫌なことなのかもしれない。
パトリックは捕まりたいほど露骨に告白しているのに、彼の告白を受け取る人間がいない。この社会はそれほどイカれた社会である。
弁護士は冗談だと思い、仲間たちはレストランの予約に夢中で、テレビではロナルド・レーガンがイラン・コントラ事件について語っている。彼らは画面の男が嘘をついているか話しながら、すぐ隣にいるパトリックの狂気には気づかない。
壊れているのは、パトリック一人ではない
もし殺人がすべて妄想なら、一人の男の精神が壊れた話で終わる。しかし殺人が少なくとも一部は現実で、それでも何も起きないのなら、壊れているのはパトリック一人ではない。
富と肩書と外見さえ整っていれば、人間の中身を見なくてよい社会。人が消えても名前を取り違え、告白を聞いても冗談として処理し、物件の価値を守るためなら過去を塗り直す社会。パトリックは、その空虚さをもっとも極端な形で映した人物である。
告白は何の意味も持たなかった
最後に示される “THIS IS NOT AN EXIT” は、謎解きの答えではない。告白による解放も罰による終わりもなく、彼は明日も同じ仲間の中で同じ顔を演じ続ける。“This confession has meant nothing.” のとおり、告白は何の意味も持たなかった。
殺人が現実でも妄想でも、パトリックを囲む世界は何一つ変わらない。
監督は複数の妄想の中に少数の真実を入れ込む。しかしそれにだれも気づかない。
映画が最後に突きつけるのは、その社会の無関心だったのだと思う。
この映画を見返す
現実と妄想を整理したあとに、もう一度見る
誰が誰を見分けられず、どこからパトリックの知覚が壊れていくのか。結論を踏まえて見返すと、同じ場面が別の証拠に見えてくる。配信状況と各サービスの公式サイトはこちら。
配信状況は変更される場合がある。最新情報は各サービスの公式サイトで確認してほしい。
調査に使った資料
- 公式情報・予告編Lionsgate『American Psycho』公式ページ
- 引用映像Movieclips:Business Cards
- 作品情報AFI Catalog『American Psycho (2000)』
- 監督・共同脚本MovieMaker:American Psycho Ending Explained
- 関係者証言MovieMaker:25周年オーラルヒストリー
- 監督講演 / 2024London Review of Books:On adapting ‘American Psycho’
- 公開当時取材The Guardian:American Psycho, the story behind the film
- 映像取材 / 2000Charlie Rose:American Psycho
- 制作稿Mary Harron / Guinevere Turner screenplay
監督と共同脚本家の発言は制作者の設計、原作者の発言は原作と社会風刺の背景、脚本は場面と台詞の照合に使用しています。オンライン制作稿では役名が「ポール・オーウェン」のため、本文は完成映画の「ポール・アレン」に統一しました。不動産関係者が痕跡を処理したという読み方など、関係者が明言していない部分は解釈として分けています。